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読書寸評、2022年7月 [読書]

町田康『パンク侍切られて候』読了。
風変わりでナンセンスな時代小説かと思いきや、言葉を縦横に駆使して世界認識や個人のあり方に迫る、まさに純文学だった。大江健三郎や筒井康隆や高橋源一郎の香りもしつつ、時代小説を音楽のように遊ばせてみせる手腕は希有。蓄積の上に咲いた無二の花。

邱永漢『我が青春の台湾 我が青春の香港』読了。
台湾で生まれ、日本の大学で学び、香港に亡命し、日本で作家を目指すまでの手記。日本の植民地からの解放を寿ぐ間もなく国民党政権の苛政に喘いだ台湾史の証言として貴重だし、時代に翻弄されつつ強かに生きる若者の立志伝としても面白かった。

源了圓『徳川思想小史』読了。
政治的安定と平和が実現された江戸時代の思想史。儒学の系譜を主な軸に、農民や町人の思想、国学、幕末まで一通り概説。身分制・封建制の限界こそあるものの、その豊饒さは西洋近代に勝るとも劣らず、明治以降の近代化はある意味で必然だったのかもと思った。

沢山美果子『性からよむ江戸時代』読了。
春画等から、江戸時代は性にルーズというイメージをもっていたけど、「家」や共同体の維持の観点から性と結婚と妊娠に様々なルールを設けようという人々の根強い意思がある一方、そこからすり抜ける現実の性接触との鬩ぎ合いや折り合いが印象的だった。

『聞き書き 緒方貞子回顧録』読了。
UNHCRやJICA理事長を勤めた緒方氏の回顧録。ある女性の一代記としても、旧ユーゴなど国際政治のオーラルヒストリーとしても秀逸。目の前の人を助けたいという情熱、政治や行政を説得する冷徹さ、現場視点の現実主義など、稀有な実務家の姿を垣間見た気がする。

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読書寸評、2022年3~4月 [読書]

■カルロ・ロヴェッリ『すごい物理学入門』
一般相対性理論と量子力学を軸とした現代物理学の概説。『ホーキング宇宙を語る』と内容少し重なるけど、ずっと読みやすく、かつ内容をほどよく忘れてたのでちょうどよい。不確定性原理の応用力を感じる。高校時代、物理は赤点回避に四苦八苦で身につかなかったので、罪滅ぼしに。

■シドニー・W・ミンツ『甘さと権力』
主に17世紀から19世紀にかけてのイギリスでの砂糖の普及を中心とした、社会経済史。中世では王公貴族にとっての希少品だった砂糖が、植民地と奴隷労働、ついで自由主義経済を通じ、労働大衆にまで広まり、かつ砂糖の社会的意味が変わっていく様子が活写されていて面白かった。

■高見玄一郎『港の世界史』
港湾の機能や船舶の観点で、古代オリエントから、ミケーネ、フェニキア、春秋戦国、ギリシア、ローマ、ビザンチウム、隋・元・明・清、ベネチア、ハンザ同盟、スペイン・ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカへと連なるクロニクル。物流は国力に直結すると痛感。面白かった。

■伊東潤『江戸を造った男』
江戸時代の豪商、河村瑞賢の伝記。航路開拓や鉱山開発、治水などへの辣腕は、戦国の世が江戸時代に生まれ変わる過程そのものとして、実に興味深い。随所に出てくる「男」のダンディズムにも味がある。江戸の繁栄を創り上げた男たちの一つの結晶を堪能した気分。

■月村了衛『脱北航路』日本人拉致被害者を伴い潜水艦で日本亡命を試みる北朝鮮海軍の人々が、苛烈な妨害を紙一重で躱す様の凄まじさ。独裁で腐敗しきった北朝鮮と事無かれ主義で身動き取れない日本、対照的ながらどこか相似な二つの国。見捨つるほどの祖国はありや?を痛切に感じた。

■吉川洋『高度成長』
朝鮮戦争や都市部への人口流入、核家族化等の主要因と、輸出や貯蓄等のサブ要因といったメカニズムがわかりやすい他、具体的な生活の変化も興味深い。成長の負の側面に触れつつ、「「高度成長」に大きな花束を送りたい」という著者の最後の感慨がやけにずっしりきた。

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『鬼滅の刃』~人間にとって生命とは何か~ [読書]

遅ればせながら、『鬼滅の刃』を全巻読んでみた。面白かった。

主人公である炭治郎の成長、前逸や伊之助をはじめ鬼殺隊の「柱」といった仲間たちとの軋轢と協同、残酷かつ強力な敵である「鬼」との戦い、鬼殺隊や鬼が放つ絢爛な様々な技など、少年漫画の王道要素がてんこ盛りである。大正時代という時代背景もまた味がある。

カッコいいものはあくまでカッコよく、悲しいものはあくまで悲しい。そして、味方にも敵にも理由と生きざまがある、そんな骨太な物語を堪能した。

中でも、『鬼滅の刃』を通じて一番感じたのは、鬼という存在を通じた人間の生命への考え方に対する挑戦と、その克服であった。

鬼は、肉体的な力で人間をはるかに凌駕し、傷を負ってもすぐ再生してしまう。しかも、人間を食い続けることで不老不死を実現している。弱点は首を切り落とすか、日光にさらすこと。人間にとっては、ある意味羨望すべき存在である。

全ての鬼たちの首領、そして鬼の存在の元である鬼舞辻無惨は、千年以上生き続け、日光の超克により完全な生命体となることを目指す。そのために、一部の人間に自らの血を分け、鬼として、情報収集や研究を重ねている。鬼とは、いわば無惨の分身である。

しかし、人間である鬼殺隊は、炎柱の煉獄杏寿郎がそうであったように、人間離れした戦闘力を持ちながら、老い衰え死んでいく人間の存在を愛し、決して鬼にはなろうとしない。人間に留まるのである。炭治郎はじめ鬼殺隊は、多大な犠牲を払いながら、物語の最後には、日光で無惨を消滅させることに成功する。そこに至るまでは、まさに、人間と鬼との生命観の対立とも言えるものだった。

鬼や無惨の前に、鬼殺隊は苦戦を強いられ、多くの死者を出す。あれだけ強力に見えた「柱」たちさえも幾人か命を失う。しかし、その死は誰かに受け継がれ、共有され、時には後退したかに見えても、無惨たちを倒す知見が蓄積されていく。しかも、それらの知見は現在の鬼殺隊の間での共有だけではなく、何百年も前から、様々な人々によるものとして連綿と伝えられ、蓄積されていくのである。

つまり、鬼殺隊に代表される人間は、個人としての生命が失われても、他の個人が、その思いであり知見を受け継ぎながら生きていく存在であり、それが人間の生命の本質的な要素として描かれている。

一方、無惨に代表される鬼は、日光を除けば不老不死であり、肉体的にも人間より遥かに強靭であるが、それは無惨の血を受けて成立している以上、無惨個人のクローンに過ぎない。鬼とは、要するに、無惨という一生命体の生存に奉仕させられる存在だ。

無惨との最終決戦は、生命体として個人として最強であるはずの無惨が、一人一人は無惨と比べれば弱弱しくさえある、人間の思いや知見の蓄積に敗れたものとして理解できる。永遠なるものは、個人の生命なのか、個人の生命を超えて人々に受け継がれる思いなのか。鬼との戦いのテーマはそこにあるのだと思う。

人間は、鬼と比べれば確かに弱いに違いない。しかし、炭治郎のように、そしてかつての「柱」たちのように、鍛えることで強くなれるかもしれない。仮に自分の思いがかなわなくても、その思いが受け継がれれば、いつの日か、それをかなえてくれる人が現れるかもしれない。

例え英雄にはなれなくても、自暴自棄にならず、思いを紡ぎ、役割を果たそうとあがく人間の姿には、ある種の尊さを感じざるを得ない。それは物語の中の話だけではない。生きていく上での本質につながるのではないかと思う。

『鬼滅の刃』は、少年漫画の王道をひた走りつつ、そんな人間の生命観の本質を感じさせる、稀有な作品として楽しませてもらった。

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【読書】『戦国の軍隊』~学びてときにこれを習う~ [読書]

『戦国の軍隊』(西股総生)読了。面白かった。

兵農未分離で農繁期には戦ができない他国大名に先駆け、いち早く兵農分離を成し遂げて機動的な兵運用を可能にし、大量の鉄砲を導入して鉄砲隊として集中編成するなどの軍事革新をもたらした織田信長。その軍事力で、当時最強をうたわれた武田軍を破った長篠の戦いをはじめ戦勝を重ね、天下統一の土台を作った。

そんな教科書的な戦国時代の軍隊への理解を覆す内容を、きちんとした論拠で提示している。

筆者が着目しているのは、兵農分離と兵種別編成の普及である。

戦国時代の軍隊では、一部の武士を除き、基本的には農民からの徴収兵であったとされている。だから戦は農閑期だけのものとされてきた。いわゆる、兵農未分離である。しかし、1550年代以降の武田氏や北条氏、そして上杉氏の軍事行動を見ると、農繁期にも大規模な軍事行動を起こしている。したがって、すでにそのころには東国において兵農分離がそれなりに普及していたと考えられる。

また、封建領主がさらに上位の権力(公方、管領、守護など)から命令に従い、兵種がバラバラなまま各々の軍隊を率いて従うという、鎌倉時代から続く領主別編成が戦国時代にも主流ではないかと考えられてきた。しかし、これも各種軍事徴収に関する文書などによると、1560年代以降には、弓部隊など、領主別に徴収された後、実際の戦闘までに軍を率いてきた領主から兵を引き離し、改めて兵種で編成されていたとみられる記録がある。

これらを可能にしたのが、戦国時代の軍隊、特に戦闘員の二重構造であった。大きく言うと、侍と足軽である。

侍は、いわゆる封建領主層、ないしは足軽等から成り上がってその地位を得た存在である。この層は、幼少期から専門的な軍事訓練を受けたり自己の修練を重ねてきたりして、個人的な戦技をひたすら磨いてきた者である。

しかも鎌倉武士の衣鉢を継ぎ、強烈な名誉意識と勝敗へのこだわりを持つ。実際の戦闘では、指揮も執るが、それ以上に、重装騎兵・重装歩兵として自ら槍をふるい敵陣敵城に率先して襲いかかる。死地に真っ先に飛び込むことを期待されかつその役割を自覚している。戦意も高く、高度な戦技を持ち、しかも機を見てだまし討ちをもこなせる、強力な戦士だ。新渡戸稲造の描いた道徳的存在である武士道とは、かけ離れた世界だ。

一方、足軽は、農民ではないものの、戦争の都度雇われる傭兵である。戦争が生業だが、侍ほど専門的な訓練を積んできたわけでも無く、戦意も、侍に比べれば低い。俸給のほか、戦場での略奪などで収入を得ている。つまりパートタイマーのような存在であり、応仁の乱以降、その活動が史実に記載されることになる。その供給源は、度重なる戦争で荒廃した農村から逃げ出した人々だ。

このように、レイヤーの違う専門軍人である侍と足軽の存在で、信長登場以前にも、兵農分離と兵種別編成が可能になっており、しかも信長に限らず多くの大名がそのように運用していたのではないかと本書では指摘している。

ついでに言えば、当時の軍編成を考慮すると、信長が近江国友などの鉄砲産地を押さえ、鉄砲の調達で有利な地位にいたのは間違いないとしても、武田氏や北条氏もそれなりに鉄砲は入手出来ており、信長の鉄砲隊比率が極端に高いわけでは無かったようだ。

では、信長が兵農分離や鉄砲隊運用を先駆けて行ったわけで無いとして、信長や秀吉が天下統一に向けて他の大名を圧することができたのはなぜか。それは、何度も形成される信長包囲網による戦争の連続などで、他の勢力と比べ、上昇志向の強い勇猛な戦士である侍層が質量とも豊富だったからではないかと唱えている。

上昇志向の強い侍層が豊富であることは、すなわち、組織内で強烈な上昇圧力や競争が常時生じていることであり、ものすごくストレスフルな組織であったことは想像できる。一方で、その組織内の競争を勝ち抜くことができれば、羽柴秀吉や明智光秀や滝川一益のように、譜代の家臣で無くても国持ち大名になることだって夢ではない。

要は、信長軍は急拡大する景気のいい成長ベンチャーみたいなもので、元からの家臣層はもとより足軽等から侍を目指す人材が集まり、しかも相次ぐ戦争で戦死なり失脚なり新陳代謝も激しいことから、武田氏などの他の勢力と比べ、獰猛極まりない戦士である侍層が雪だるま式に拡大発達していく仕組みが作られていた、ということではなかろうか。

さて、織田信長や戦国時代については、子供のころからも、大人になってからも、様々な書籍なり何なりで目にしてきた。しかし、その後の研究が進むにつれ、そしてそれを知るにつれ、知識としてもっていたディテールがアップデートされていく。これは何とも言えず心地よいものだ。

「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや」

本書を読み終えて、そんな論語の一節を思い出した次第である。

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『機龍警察 白骨街道』~エンタメが照らす現実~ [読書]

機龍警察シリーズの長編第六作、『機龍警察 白骨街道』が刊行された。

これまでは、過去の回想を除き国内が主な舞台だったが、今回はミャンマーと日本の現在を行き来する。官邸幹部の意向で、混乱続くミャンマーに被疑者の受け取りに行く3人の警視庁特捜部付警部。一方国内では、城木理事官の親類企業も関与する、京都震源の大規模な贈収賄・金融事犯捜査が進展する。

治安維持をはじめ政府が機能しているとはいいがたいミャンマーで、機甲兵装含む度重なる襲撃を果敢に生き延びる部付警部たち。それと、刑事部捜査二課と特捜部、そして休暇で京都に滞在する城木理事官を軸に、裏付け捜査や政治的駆け引きの続く日本の現状が交錯する。銃器や機甲兵装が織りなす戦闘の火花と、世を蝕む犯罪にまつわる人々の闇。

雑誌連載中にミャンマーのクーデターが発生し、最終回ではそれをもクライマックスに飲み込み、物語は、登場人物たちに、そして読者に様々な余情と苦味を残しながらも、一定の方向に収束していく。

そこにあるのは、確かに、類まれな冒険小説であり、秀逸な警察小説である。しかしそれだけでは足りない。より以上に感じるのは、2021年という時代における一つの現実ではなかろうか。一人一人が自分の欲望と意思と矜持に従い、知恵を絞り己の任務を遂行し、ある者は生き残り、ある者は肉体的あるいは社会的に命を失う。血の滴るような現実感がそこにはある。

『白骨街道』という作品の基調低音として、コロナ禍やオリンピックをはじめとする現代日本に対する、溢れんばかりの義憤や批評性を感じるのは当然かもしれない。しかし、何より重要なのは、『白骨街道』は読んで面白いということ、何よりもまず、エンターテインメントであるということだ。世の中に対する熱い想いと、それを伝えるための冷徹な匠の技が、高い志で融合したとでも言えようか。

その幸福な融合によって、『白骨街道』は、読者に一つの現実を提示した。現代社会は、知識や情報が専門化・細分化され、あまりにも複雑であり、誰もが現実を見通すことができずにやきもきしているのではないかと思う。良質のエンターテインメントは、人々の生きざまを通じ、現実を照らす灯の役割を担っているのかもしれない。そう、『白骨街道』は、灯なのである。

さて、例によって例のごとく、今回も執筆協力をさせていただいている。この物語が一人でも多くの人に読まれ、それぞれの現実を照らす良きよすがにならんことを、なんとはなしに祈るんである。

<ハヤカワ・オンライン>
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014901/


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