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新しい共同体主義に関する試論にして始論 [雑論]

素人考えだけど、今は共産主義や社会主義ではない共同体主義について考えるべき時なのかもしれない。

それは、個人主義と自由主義と自己責任論による人々の分断を癒やすためであり、現代の個人の幸せが依存する制度やインフラを、無数の人々の営為、つまり共同体によって維持発展させていくためでもある。つまりは、近代から現代にかけての成果である個人主義や自由主義をきちんと守るために、共同体主義的な考え方が必要だと思うのである。

現代の考え方の主流は、良くも悪くも個人主義と自由主義、それを自己責任論が補強しているような形だと思う。端的に言えば、一人一人は努力すれば報われるのであり、逆に言えば、報われない者は努力や能力が足りないのである。

そのような考え方が先鋭化すれば、社会的・経済的成功と個人の道徳が結びつくことになる。報われないつまり社会的評価や報酬の低い職業に従事する人間は道徳的に劣るという扱いにならざるを得ない。しかし、制度やインフラを支えている人々の多くは、現状において、決して社会的地位が高いわけでも報酬が高い人たちばかりでも無い。そうなると、制度やインフラが道徳的に軽視されることにつながりかねない。

一方で、現代社会で豊かな生活を営もうとすれば、交通、通信、エネルギー、水、物流、治安、防衛、防災等々、誰しも、複雑な制度やインフラに依存せざるを得ない。それらの運用が道徳的に軽視され、適切に資源配分がされなければ、制度やインフラは早晩衰微するはずである。それは全ての人々の生活水準を掘り崩すに違いない。

もちろん、制度やインフラの衰微に真っ先に影響を受けるのは貧困層であり、富裕層はある程度自己の資力によって補うことができる。しかし、衰微していく一方の制度やインフラへのコスト負担は、富裕層にとっても、徐々に重い負担となるはず。かくして、人類の生活水準が全面的に低下することになる。

かような全人類的な生活水準の低下が表面化するには、何十年か何百年かかかるのかもしれない。しかし、人類が個人主義と自由主義と自己責任論によって共同体を軽視し、共同体で生まれ運用される制度やインフラをも軽視するのであれば、生活水準の全面的低下は必ず訪れることになる運命ではないかとは漠然と思う。

共産主義や社会主義とは一線を画す共同体主義がどのようなものか、正直なところ、具体的にイメージができているわけではない。ただ、個人の自由を最大限生かすには様々なインフラや制度が不可欠であり、それらに対する、およびそれらを維持運用している人々に対する想像力と敬意を人々の間にいかに喚起するかが出発点になるのではないかと推測している。

そんな、共同体主義への試論にして始論なんである。


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序説、自我主義とルール主義。リベラルと保守を超えて [雑論]

巧く言えないけど、このご時世人々の意見に仮に対立軸があるとしたら、それはリベラルと保守じゃなくて、自我主義とルール主義とでも呼んだ方がいいものなんじゃないかとなんとなく思う。ちょっといいかえれば、ご都合主義と冷笑主義みたいな感じ。

例えば、一部フェミニズム運動が批判される理由の多くは、論者による、反転可能性を無視したその主張の一貫性の無さなどであって、フェミニズム自体が否定されたものでは無かった。つまり、男女が可能な限り平等で両性にとって生き易い社会であるべきという意味でのフェミニズムは、もはや、リベラルや保守という従来の立場を問わず共有されているのではないかと思う。

一部フェミニズム運動や運動家が批判されたのは、そのご都合主義が理由であってフェミニズム自体ではないとすると、論点はフェミニズム、つまり女性を社会的にどう位置付けるかに関する議論ではなく、ご都合主義を許容するか否かが主戦場になってくる。

ご都合主義と言ってもその発端の多くは目の前の不条理に関する素朴な憤りであり、人々の潜在的な問題意識に触れれば、瞬く間に多くの共感を得ることができる。しかも、個人の自我感情に基づくものだけに根強い力を持つ。このように個人の自我感情が発端となりそこから共感が広まる主張を、仮に自我主義とても呼んでおこうか。

一方、ご都合主義を批判する立場をルール主義と呼ぶならば、それは熱い強い自我主義に対し反転可能性や他の類似事例との比較検討を促すことで、冷や水を浴びせかける。その意味では冷笑主義とも言えるだろう。しかし自我主義で訴えられた問題意識を社会の中で制度化し、人々の考え方や暮らしを実際に変えていくには、個人の感情を超えた普遍化もやはり必要である。

自我主義やルール主義は、問題を解決していく際、排他的ではなく、むしろ相互に依存せざるを得ない状況にあると思う。ある不条理につき、自我主義が無ければそもそも問題として認知されず、不条理は残されたままになるだろう。しかしルール主義を取り入れなければ、自我主義による共感は一過性の感情の爆発で終わり、制度として定着することはありえない。

リベラルや保守のように、従来どおり、価値観そのものの意見対立もまだまだ存在すると思う。しかし、現代の対立軸の多くは、ある程度価値観を共有した上で、その実現に向けた方法論に関する対立なのではないかと最近思っている。まあ、もう少し色々見たり読んだり考えたりしなければならないんだろうけど。

とりあえずそんな、自我主義とルール主義に関する序説なんである。
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知識人の滅亡、あるいは一億総素人 [雑論]

何らかの専門知識のバックグラウンドを持ちつつ、その知識の広がりと思考から、世の中の様々な問題について傾聴に値する意見を発信することで、人々を啓蒙し、その判断や意思決定をサポートする。

そんないわゆる知識人は、もはや滅んだのではなかろうか。

以前からうっすら思っていたが、新型コロナウイルスを巡る状況で、なんとはなしに確信に変わった。

その背景は大きく二つあると思う。

一つは、発信で要求されるものが知識や思考ではなくなってしまったこと。

現状メディアでは、知名度、容姿、会話における当意即妙の反射神経、空気を読む力、媒体の方針と一致する政治的立場など、発信において、蓄積されてきた知識やそれに基づく思考以外のものが優先されているように見えてならない。

専門的な問題に対する、芸能人や著名人によるその分野の最低限の基礎知識を無視した「素人の素朴な疑問」や、やはり芸能人や著名人による「バッサリ切り捨てた」などの表現が大きく扱われる事態が、その好例と言えるのではないか。

もう一つは知識や技能の際限ない細分化・専門分化である。

医師一つとっても、小児科、外科、内科等異なる。感染症の専門家と言っても、研究者もいれば臨床医もいるし、政治や行政と関係の深い公衆衛生分野も、感染症の専門医とは、厳密に言えば異なるだろう。

例えば新型コロナウイルス対応でも、感染症の研究者とされる人が、防疫の具体的な場面で法制度に基づいて人をどう動かすかなどについて、必ずしも豊富な知見をもっているわけではないらしいことがわかった。

専門知識は日進月歩で進歩し、それにつれて細分化してくることは間違いない。この傾向を止めることができない以上、ある分野の専門知識の最先端にいるということが隣接分野への専門知識を保証しない可能性は、今後ますます高まってくるだろう。

このような現状において、僕らがメディアから意思決定に資する視点や情報を得ることは、かなり困難であると言える。なぜならばメディアで語る人の多くが素人であり、なんなら自分らとそう変わりは無い可能性があるからである。

その意味では、一億総素人時代と言っても過言では無かろう。

意思決定や判断のために、知識や情報は必要だ。とはいえ、日々の仕事や生活の中、素養の無い分野の専門知識を追って論文を定期的に読むような時間があるわけではない。自分ができる経験にも限度がある。

僕らは自分の意思決定に資する知識や情報を得るために何をすべきか。

一つは、好きな分野についてだけでも、最先端とは言えなくても、ほほ揺らがないであろう基礎知識を身につけておくことだろう。学部レベルの教科書や、一般向けの新書、啓蒙書などを広く読むことが大事だと思う。そうすれば、少なくとも、当該分野で絶対にありえないことの判別はつきやすくなる。

もう一つは、日々目にする情報や専門家とされる人々の発言、官公庁のリリースなどを比較して、各分野である程度信用できる専門家を自分で見つけていくことだろう。新書や啓蒙書の著者などから探していくと、とっつきやすいのではなかろうか。

さらに言えば、自分の得ている知識や情報に限界があることを常に意識しておくことや、知識や情報のアップデートとそれによる意見や判断の変更を恐れないということも大事なんだろう。

さて、このご時世、確かに、知識人は滅亡したと思う。

しかし逆に言えば、知識人と僕のような一般人の垣根がそれほど変わらなくなったと言えるのかもしれない。また、一人一人が知識人に近づいていく必要があるご時世と言って良かろう。

学ぶことの必要性は、古代から変わることはないはずだ。よりよい判断をするために、そして自分の快楽のために学ぶことが、引き続き価値を持つのだろう。また、大げさに言うのならば、それは人間の尊厳ではないかとも思うのである。

ま、ぼちぼちやりましょう。

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毛利元就と情報戦に関する雑感 [雑論]

いわゆる情報戦で凄いのは、やはり毛利元就だと思う。

戦国時代は通信傍受こそ無いものの、大名の近習に間諜を送り込むのは
チャメシインシデント。乱破や素破といった忍び連中も大活躍だ。

海音寺潮五郎の『武将列伝』その他の文献によれば、毛利元就の反間、
すなわち敵のスパイに偽情報を握らせるやり口の名手ぶりは際立っている。

陶晴賢を破ったかの厳島の戦いでは反間を中心とする情報誘導が二重三重に
張り巡らされほとんど福本伸行の漫画みたい(順序が逆か)。

元就の凄いところは、情報戦の達人なのに周囲の人間に「いい人」な印象を
抱かせるのに成功しているところ。いい人キャラとのギャップ萌えが元就の
謀略の真骨頂だと思う。

これが松永久秀や織田信長 、武田信玄だと同じ謀略でも毛色が違う。
彼らは謀略は好きだし情報戦にももちろん長けているけど、それぞれ印象が悪どい。
いい人感など、微塵も感じさせない。

さて現代日本、盗聴はもちろんだけど、ジャーナリズムや職員のSNS利用などで
情報統制はほぼ不可能な状態だ。であれば、自分の情報が漏れていることを想定
するのは、もはや当たり前なのだろう。

かつてビートたけしは、貴乃花に対する「感動した!」との小泉純一郎総理(当時)の
発言に対し、「それを感情ではなく計算で言えなきゃだめだ」という趣旨の指摘をしていた。
しかし仮に計算があったとしても、小泉氏は自己のイメージ演出上計算とは言わないだろう。

情報戦とは、要はそういうことなのだと思う。

毛利元就とかを範とすれば、国家間の情報戦を考える上で、その国の 対外的な
イメージとのギャップを活用するのは効果的かもしれない。

日本人は国家に対し、「情報戦が苦手」「お人よし」「付け込まれる」「交渉に弱い」などの
セルフイメージを持つことが多いが、他国から見たらどうか。

佐藤優氏は、国家の情報収集力は国力(GDP)にほぼ比例すると指摘したことがあり、
曲がりなりにも世界3位のGDPを持つ国に対し他国が見るイメージは、違ったものになる
可能性が高い。

などと、長々興にまかせて書き連ねてきたが、盗聴されていることも含め情報をいかに
活用するかについて、結局は、「敵を知り己を知れば」という孫子の簡潔な言葉が脳裏
をよぎってしまう。

まあ、諸人なかなかそのとおりに出来ないから、古典であり奥義なんだろうけど。

そんな情報戦に関する雑感。

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