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つれづれに読む、『ナポレオン言行録』 [読書]

付き合いが長い本に、『ナポレオン言行録』(岩波文庫)がある。初めて読んだのは、中高生時代だろうから、もう30年近く前だ。折に触れて、ちょいちょい紐解いては、言葉をつまみ食いしている。。

ナポレオン(1769 - 1821)は、言わずと知れた世界史上の傑物だ。

コルシカ島の下級貴族出身。フランス革命の混乱から軍事的才能でのし上がり、クーデターにより35歳でフランス皇帝に即位。イギリスによる度重なる対仏同盟を戦勝に次ぐ戦勝で跳ね返し、欧州大陸を概ね勢力圏に置くも、ロシア遠征で致命的な敗北。その後、ロシア、イギリス、オーストリア、プロイセンなど、ほぼほぼ欧州全域を敵に回したライプチヒの戦いで敗れ、退位。ところが、流刑地のエルバ島から脱出し再度フランス皇帝に即位。しかし、ワーテルローの戦いで一敗地にまみれ、今度こそ南海の孤島セントヘレナ島に流され、そこで生涯を終える。

決して長くは無いものの、割とお腹いっぱいの人生だ。政治、軍事、外交、恋愛に、ただただエネルギーを燃やした人生なのだろう。言行録では、そんな彼の肉声が楽しいのである。好きな言葉をいくつか引っ張ってみよう。

「私にはあなただけしか眼に入りませんでした。私の讃嘆するのはあなたひとりです。私の欲情するのはあなたひとりです」(ヴァレフスカ伯爵夫人へ:1807年1月2日)

「私の魂はさびしい。私の心は恋の奴になっている。そして私の想像は私をおびやかす。……いつか、君は私をもはや愛さなくなるのだろう。それならそうといっておくれ、私はせめて不幸に値するだけの人間にはなれると思うのだ。」(市民ボナパルト(ジョゼフィーヌ)へ。1796年3月27日)

ナポレオンのラブレターは、21世紀の現代から見ると、結構暑苦しい。

とはいえナポレオン、政治的なレトリックもなかなかなものである。当時の欧州情勢では、ロシア・オーストリア・プロイセンの三国による分割で滅亡したポーランドの扱いが一つの争点となっていた。実際、フランス軍にはポーランド人が多数志願し、その独立を願っていたのである。これについて神経をとがらせているロシア大使との会話。

「私はポーランドを再建しようとは思わない。さりとてまた、ポーランド王国は決して再建されることはあるまいと宣言することによって自分の名誉を失墜しようとも思わない。(中略)ポーランド人およびロシアのために、私はポーランド人に勧告して落ちつきと服従を求めてはいます。しかし私は自分をポーランドの敵として宣言はしないでしょうし、フランス人に向かって、ポーランドをロシアのくびきの下におくために諸君の血が流れなければならぬ、などとはいいませんよ」(1810年7月1日)

戦争への洞察力も、さすがである。中でも、次のいくつかの警句はよくできている。

「最大の危険は勝利の瞬間にある」
「軍学とは与えられた諸地点にどれくらいの兵力を投入するかを計算することである」
「将軍がその場に居ることは欠くべからざることである。将軍は軍隊の頭であり、一切である」
「軍隊とは服従する国民である」

ナポレオンが最も巧みなのは、軍隊の士気を鼓舞する演説ではないかと思う。概ねフォーマットが決まっているところも面白い。だいたい以下の流れである。

・兵隊の現状の苦難(疲労、窮乏、悪天候等)への理解
・ここまでの戦闘、努力への賛辞
・乗り越えるべき苦難、戦闘と、それを乗り越えた後の状況改善の約束
・兵隊の名誉意識の喚起

長文なので引用は差し控えるが、このような演説が軍隊に一定の効果をもたらしたとするならば、そのフォーマットは、軍隊以外にも応用できるのではないかと思う。具体的には、一定の苦難や我慢にある人に努力や行動を促すとき、さらに例えれば、新型コロナウイルス対策で自粛を要請するときとか。

ナポレオン言行録をはじめて読んだときは、自分も世の中も、まさかこんな未来になるとは思っていなかった。しかし時を経てもなお、紙に印字された言葉は変わらず、読む側になんらかの面白さや教訓を与えてくれる。そんな元ネタをくれた、200年前のフランスの英雄に、乾杯、なんである。

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【読書】『日本史の謎は「地形」で解ける』 [読書]

『日本史の謎は「地形」で解ける』(竹本公太郎)読了。面白かった。

日本史の様々なトピックを取り上げ、それに人文社会学的ではない地形や気象面での考察を加え、その背景を明らかにすることを試みている。

まずユニークだったのが、忠臣蔵を巡る一連の論考だ。そこでは、徳川幕府が、三河時代からの因縁ある吉良家を滅ぼし、忠義という幕府に都合のいいイデオロギーを喧伝するために、赤穂浪士の仇討ちを利用したのではないかと結論付けている。

理由としては、一つに、赤穂浪士が江戸城半蔵門近辺に潜伏していた違和感を挙げる。

半蔵門は、他の門と異なり橋ではなく土手で街道と結ばれており、防衛上相対的に不利であることから、その周囲は大名や旗本の屋敷で固められていた。したがって幕府の監視が厳しい場所だったはずであり、そこに犯罪予備軍が潜伏するには、幕府の黙認があったに違いないと考える。

次に、浅野家の菩提寺であることを理由に、家康創建に係る泉岳寺に四十七士を埋葬することの異例さである。これは、赤穂浪士の活動を幕府として黙認したと同時に、街道筋にあり人通りが多い泉岳寺を通じ、忠臣蔵という忠義の物語を普及させる狙いがあったとしている。

加えて、三河における矢作川の水運を巡る、松平≒徳川氏と吉良氏の間の因縁についても言及する。徳川氏としては、足利氏の幕府に近しい高家としての利用価値はあったものの、機会があれば吉良氏を除く機会をうかがっていたのではないかと解しているのである。

忠臣蔵以外にも、信長の比叡山焼き討ちなど、様々な論点を挙げているが、印象深かったのが、浮世絵などを見ながら紹介する、徳川家康の江戸入府以降の、関東平野や江戸を巡る諸々の治水対策である。

戦国時代、江戸は後北条氏の勢力圏であったが、周囲は水はけが悪い湿地帯で、生産性は高くなかった。この江戸を中心とした関東平野を、家康および以後の徳川幕府は一変させる。その最大のものは利根川の改修だ。東京湾に注ぎ込んでいた利根川を、現在のように、銚子方面に流したのである。

その他、荒川(現在の隅田川)の氾濫を防ぐために両岸に堤防を作るだけでなく、その近くに吉原遊郭、川向うに向島の料亭街を設け、堤防に人の行き来を増やすことで、堤防を踏み固めるとともに、堤防の異常が通報されやすい仕組みにしたのではないかと指摘している。

他にも、治水や飲料水確保の施策が諸々紹介されているが、そこにあるのは、京都から江戸に日本の文明の基軸を移そうとする、徳川幕府の壮大な決意ではないかと思った。

ちなみに、家康の江戸入府以前、関東平野に覇を唱えていたのは、先述の通り北条氏。北条氏は戦国大名としては異色なまでに内政を重視していたが、利根川や荒川の改修にはほとんど手つかずであった。やはり国家の統一による平和と、強力な幕府によるリソースの集中活用が治水には不可欠なのだろう。

本の終章近くでは、都市として異例の発展を遂げた福岡について解説がされる。福岡は、東京はもちろん、京都や奈良と比べても、水運、エネルギー、食糧調達の便など、都市成立の諸条件に著しく不安があるが、それを補って余りある交流の利便性によって成り立つ都市であるという。

さて、日本の歴史上の都市文明として、まずは大和川の水運を利用してシルクロードの終着点としての飛鳥・奈良が栄え、淀川・琵琶湖の水運により日本海と太平洋をつなぐ拠点として京都が栄え、軍事力による平和を背景に、荒川・利根川を制することで広大な平野が利用可能になった東京が栄えて現在に至る。より大きな川の流域に、より交通の便がよいところに都市は遷移している。

本書は、逆に飛鳥・奈良から遡った都市文明、すなわち邪馬台国の位置について簡単に仮説を述べて終わる。つまり現在議論になっている候補地で、大和川より小さな川の流域で、かつ交流の利便性があるところはどこか、それは伊都国、すなわち博多湾沿岸では無かろうか、とのことである。

日本史の謎、というタイトルから、何か日本史のトリビア的な知識が書かれていることを想定して読み始めたが、ここまでくると、日本文明の盛衰を見せられたような気がしてしまう。

20世紀後半になって、自動車と鉄道と飛行機により様相は変わってしまったが、それ以前の数千年以上もの間、日本人、いや世界の多くの人々にとって、河川や海の水運こそが文明を担うきっかけだったのだなあと思いをはせてしまう。

筆者は、政治や経済と比べ、地形や気象を「下部構造」として、謙遜したような物言いをしているが、なかなかどうして、稀有壮大な文明論を読むことができたと思うのである。


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【読書】人間をお休みしてヤギになってみた結果 [読書]

『人間をお休みしてヤギになってみた結果』(新潮文庫)読了。面白かった。

デザインスクールを卒業した実家暮らし30代男性無職が、人間の暮らしに嫌気がさして、文字通りヤギの暮らしにチャレンジする話。はなはだふざけていて荒唐無稽なんである。ただ、そのプロセスが妙にきちんとしていて、興味深いのは否めない。

きちんと研究の助成金を取ったことを皮切りに、シャーマンに動物の意識について聞き、ヤギの生態について見学して専門家から習い、ヤギと人間の歩行プロセスや骨格の違いについて研究者と議論して自分用のヤギギプスを作り、ヤギの筋肉や骨や内臓の構造やらを知るためにヤギの遺体解剖に立ち会い、ヤギと同じように草を食べるためにセルロースを分解するヤギの消化プロセスの人工的な再現に四苦八苦する。

ここまで準備して、ようやくスイスのヤギ農家でヤギの暮らしを体験することになる。人間と比べて前足に体重をかけるて四足歩行するためのヤギギプスを装着し、草を発酵させるための人工胃袋をたずさえ、ヤギの群れに入る。当然、ヤギに比べてうまく歩いたり走ったりはできないし、草は口の中で咀嚼して人工胃に吐き戻すのみ。

一日ヤギ暮らしを終えると、人工胃で発酵させた草に圧力をかけてセルロースを分解し、食ってみる。当然人間にとって美味いものではない(その後ステイ先でヤギのシチューをふるまわれる。これは美味そうだ)。傍から見ると全然楽しそうに見えない。もはやある意味苦行だ。

でも、このヤギ暮らしレポートのそこはかとない魅力には抗いがたい。そのわけは、たぶん、人間の知性や生活の相対化の欲求を、知らず知らずに僕らが抱いているからなのかもしれない。

ヤギはただヤギとして暮らしているだけである。にもかかわらず、人間としてその暮らしを体感し、理解するには、動物行動学、生態学、解剖学、医学、発酵学、そして牧畜やシャーマニズムとかの諸々の知識への理解がいるらしい。人間社会では、それぞれの専門知識が進歩の名の下に日々専門分化しているけど、ヤギはヤギとして暮らし続けている。

専門分化を続ける人間の知識や生活に比べ、その総合として常に存在し続ける現実は、ある意味相反するのかもしれない。しかし、人間も現実の存在である以上、専門分化を続ける日常の視点から離れ、総合へのあこがれに似た感情があるのではないかと思う。

そういう、ある意味人間に共通するのではないかという人々の感情に、きっと、ヤギ暮らし体験の試みは非常に刺さってしまうんである。

人間は人間から逃れることはできない。でも、人間と異なる視点を置くことで、知識の細分化の先で息詰まっている、本来は現実の一部であるはずの人間に対し、新たに総合的な意味が付け加わることもあるだろう。人間を相対化する試みは、ある意味、人間が人間に回帰する試みなのかもしれない。

この本の内容は、その後、あの名高い(笑)イグノーベル賞を受賞したとのこと。ヤギになってみたいと思う人は存外多いかもしれず、そして自分もその一人かもしれないと、読み終えた後ぼんやりと思ってしまった。

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日露戦争、国民国家の栄光と斜陽 [読書]

最近、『海の史劇』、『ポーツマスの旗』ともに吉村昭)を立て続けに読んだ。どちらも、日露戦争の話。前者は、日本海海戦がメインで、後者はポーツマス講和会議が舞台。

明治時代、封建体制からたかだか30年余りで、欧米に伍する国民国家を作り上げた、その国民的な努力には素直に敬意を表する。だがそれがいかに人々に無理を強いていたかを感じると、とても複雑な気持ちになる。

今では自明のことだが、日露戦争において、日本は個別の戦闘では連戦連勝だったものの、講和会議のときにはすでに戦争を継続する国力が尽きていた。一方ロシアは、たかだか辺境の果ての局地戦に破れたのみという認識で、戦意十分。

そのような事情を、当時の日本国民は知る由もなかった。

講和の結果ロシアから賠償金が取れないことが判明すると、日本国民は戦争継続を求めて暴動を起こす。日本の国力を考慮した政府の政策判断は、講和会議でロシアに足元を見られないための、すこぶる合理的な判断だった。

しかし、重税による軍備拡張や徴兵制の導入など、これまで欧米に伍する国になるよう我慢に我慢を重ねてきた国民にとっては、戦争で勝利したにもかかわらず賠償金や領土(南樺太を除く)を獲得できなかったことに我慢の限界が来たのだろう。それぞれに国を思い、心からの怒りを爆発させた。

いささか後知恵ではあるが、客観的にいえば、日露戦争は、戦闘の勝利というより、アメリカを仲介にした事態収拾の巧みさや、革命勢力が跋扈するロシア国内に対する情報工作、外債による資金調達等、国家としての総合力が評価されるべきものだったにも関わらず。

思えばここで、国家と国民の幸福な関係は終わったのだろう。そして日露戦争に「勝利」したと思いたがった大多数の人々の擬似成功体験が、大正昭和の日本に大きな呪縛を施してしまったのではなかろうか。

でも、そのときどうすればよかったのか、僕にはわからない。だから、このくだりを読むと軽い眩暈を感じるような、憂鬱な気持ちになってしまう。

そんな、国民国家の栄光と斜陽を、日露戦争から感じてしまうのである。

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【読書】『ギャラクシー銀座』感想 [読書]

『ギャラクシー銀座』(長尾謙一郎)は、最も好きな漫画の一つかもしれない。

主な登場人物は、おそらく、北古賀家の人々。

まず、10年間自宅で引きこもりを続ける竹ちゃん(北古賀竹之進)。そんな彼は、自らをロックミュージシャンに擬し、毎夜ギグと称するイタズラ電話に精を出し、相手のエゴを炙り出しては絶叫。「己のパンツは宇宙一穢い! 己のパンツは宇宙一穢い!」。そして電話機を叩きつけては破壊する。

そんな息子の竹ちゃんを見守るマミー。竹ちゃんにお小遣い(百万と五円。「社会とご縁がありますように」)や電話機を惜しげもなく与え、竹ちゃんのためなら渋谷で覚せい剤を買う危険を冒すこともいとわない溺愛ぶり。ママさんコーラスの練習中に、しょっちゅう宇宙人を嘔吐する(「おぉぉぜぇぇぇぇぇ」)。

父上は、国民的シャンソン歌手ココ北古賀。彼が莫大な富を稼いだ築いた北古賀家の邸宅は、彼の代表曲『チンモルケ』の名をとり、「チンモルケ御殿」と呼ばれている。かつらと入れ歯の老人ではあるが、オタマジャクシ型のコカインを鼻から吸引するなど、不気味な存在感を醸し出している。

基本的には、北古賀家の人々を中心に話は進むが、随所にちりばめられる漫画としてのアフォリズム。

屋形船を二人で貸切るチャラ男たち、六本木のペットショップで放尿する大江戸ボンバーズのボーカル、走るホストクラブ「ニューファラオ」、男のジム「サクセス」、地球に帰還してサルになってしまった宇宙飛行士の豆村さん、栗ひろし、ブギウギシスターズ、ハスキー美々とぽーやん、自称エビちゃん似のコニー。そして、作中のキーワードとして角度を変えては何度も登場する「竹やぶ」。

その一つ一つが目を奪うに十分な奇矯さを持ち、読者のハートに強烈なインパクトを残していく。そこから意味を感じ取るのは正直困難で、ただただ身をゆだねるしかない。

一話完結ではなく続き物ではあるのだが、一貫したストーリーのようなものはほとんど見当たらず、行き当たりばったりのような話が印象だけを残して一枚一枚と積み重ねられる。竹ちゃんがコニーとの逢引のために10年ぶりに外出し、這う這うの体で帰宅してから、話は畳みかけるように収束する。

マミーと竹ちゃんの二人で、竹やぶに行って帰宅。マミーによるココ北古賀殺害の発覚、部屋に火をかけ竹ちゃんをも拳銃で殺そうとするマミー、マミーに反撃して銃を奪うも、マミーの殺害と自死との間で揺れ動いた結果、「分かったんだよ・・・宇宙の真理が・・・」と、マミーに銃を返して銃殺される竹ちゃん。丘の上で燃え上がる「チンモルケ御殿」の絵をラストに、物語は終わる。

10年間自宅に引きこもり、マミーやココ北古賀の意思に翻弄され続けた竹ちゃんにとって、悲惨な結果に終わったとはいえコニーとの逢引は自我の再生であり、マミーへ拳銃を返して殺されるに任せたのは、親子関係の清算であり、自分の意思の再生を通じた、自由と尊厳の獲得だったと思う。作中不安に苛まれ続けた読者としては、竹ちゃんのそんな姿に一抹の救いを感じてしまう。

ともあれ、だ。

親子、家族、恋愛、自由、尊厳。そんな人生の論点が、荒唐無稽なシュルレアリスムの大海に浮かんでは明滅する。読むほどに理解が拒絶され不安が募る中、最後数話の急転直下と残る微かなカタルシス。『ギャラクシー銀座』こそ、漫画史に禍々しく咲く仇花だと思うのである。

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