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『鬼滅の刃』~人間にとって生命とは何か~ [読書]

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遅ればせながら、『鬼滅の刃』を全巻読んでみた。面白かった。

主人公である炭治郎の成長、前逸や伊之助をはじめ鬼殺隊の「柱」といった仲間たちとの軋轢と協同、残酷かつ強力な敵である「鬼」との戦い、鬼殺隊や鬼が放つ絢爛な様々な技など、少年漫画の王道要素がてんこ盛りである。大正時代という時代背景もまた味がある。

カッコいいものはあくまでカッコよく、悲しいものはあくまで悲しい。そして、味方にも敵にも理由と生きざまがある、そんな骨太な物語を堪能した。

中でも、『鬼滅の刃』を通じて一番感じたのは、鬼という存在を通じた人間の生命への考え方に対する挑戦と、その克服であった。

鬼は、肉体的な力で人間をはるかに凌駕し、傷を負ってもすぐ再生してしまう。しかも、人間を食い続けることで不老不死を実現している。弱点は首を切り落とすか、日光にさらすこと。人間にとっては、ある意味羨望すべき存在である。

全ての鬼たちの首領、そして鬼の存在の元である鬼舞辻無惨は、千年以上生き続け、日光の超克により完全な生命体となることを目指す。そのために、一部の人間に自らの血を分け、鬼として、情報収集や研究を重ねている。鬼とは、いわば無惨の分身である。

しかし、人間である鬼殺隊は、炎柱の煉獄杏寿郎がそうであったように、人間離れした戦闘力を持ちながら、老い衰え死んでいく人間の存在を愛し、決して鬼にはなろうとしない。人間に留まるのである。炭治郎はじめ鬼殺隊は、多大な犠牲を払いながら、物語の最後には、日光で無惨を消滅させることに成功する。そこに至るまでは、まさに、人間と鬼との生命観の対立とも言えるものだった。

鬼や無惨の前に、鬼殺隊は苦戦を強いられ、多くの死者を出す。あれだけ強力に見えた「柱」たちさえも幾人か命を失う。しかし、その死は誰かに受け継がれ、共有され、時には後退したかに見えても、無惨たちを倒す知見が蓄積されていく。しかも、それらの知見は現在の鬼殺隊の間での共有だけではなく、何百年も前から、様々な人々によるものとして連綿と伝えられ、蓄積されていくのである。

つまり、鬼殺隊に代表される人間は、個人としての生命が失われても、他の個人が、その思いであり知見を受け継ぎながら生きていく存在であり、それが人間の生命の本質的な要素として描かれている。

一方、無惨に代表される鬼は、日光を除けば不老不死であり、肉体的にも人間より遥かに強靭であるが、それは無惨の血を受けて成立している以上、無惨個人のクローンに過ぎない。鬼とは、要するに、無惨という一生命体の生存に奉仕させられる存在だ。

無惨との最終決戦は、生命体として個人として最強であるはずの無惨が、一人一人は無惨と比べれば弱弱しくさえある、人間の思いや知見の蓄積に敗れたものとして理解できる。永遠なるものは、個人の生命なのか、個人の生命を超えて人々に受け継がれる思いなのか。鬼との戦いのテーマはそこにあるのだと思う。

人間は、鬼と比べれば確かに弱いに違いない。しかし、炭治郎のように、そしてかつての「柱」たちのように、鍛えることで強くなれるかもしれない。仮に自分の思いがかなわなくても、その思いが受け継がれれば、いつの日か、それをかなえてくれる人が現れるかもしれない。

例え英雄にはなれなくても、自暴自棄にならず、思いを紡ぎ、役割を果たそうとあがく人間の姿には、ある種の尊さを感じざるを得ない。それは物語の中の話だけではない。生きていく上での本質につながるのではないかと思う。

『鬼滅の刃』は、少年漫画の王道をひた走りつつ、そんな人間の生命観の本質を感じさせる、稀有な作品として楽しませてもらった。



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