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『半暮刻』~人間性に対する痛切な批評~ [読書]

月村了衛さん『半暮刻』読了。

もはや月村さんの定番といっても過言ではない、なまじな報道をはるかに超える鋭さを持つジャーナリスティックな視点と心憎いまでのエンターテインメントとの両立に加え、本作では、人間性とは何かを考えさせられる作品だった。

主人公は、翔太と海斗という、対照的な出自の若者二人である。

翔太は、児童養護施設で育った元不良。海斗は、高級官僚の家に生まれ有名私大に通う大学生。二人は、それぞれ別のルートから、会員制バー「カタラ」の従業員になる。ここはホストクラブでこそないものの、言葉巧みに女性を騙し惚れさせ、金を使わせて借金まみれにしたのち、風俗に落とすことが目的の半グレが経営する店。

店の〈マニュアル〉に沿って女性を陥れることに成功体験を覚える二人は、タッグを組んでさらに業績を上げていく。短期間でカタラの幹部にまで上り詰めようと勢いづく二人だが、その勢いは警察のカタラグループ摘発によって実にあっけなく潰え、二人は、生い立ちと同様に、全く異なる道を歩むことになる。

*以下、若干ネタバレ注意。

実刑という、否応なしに己の罪を見つめざるを得ない環境に放り込まれ、生きるために文字通り社会の底辺から足掻き続ける翔太と、事情聴取すらされず、これまでの人生に傷をつけることなくすり抜け、大学卒業後、大手広告代理店アドルーラーへの就職を勝ち取り、活躍する海斗。

足掻き続ける翔太は、仕事で出会った女性の影響で『脂肪の塊』を読んでから読書に目覚め、新たな自分の世界を開いていく。順風満帆に見える海斗は、着々と実績を重ね、政府のビッグプロジェクト運営の幹部となり、辣腕を振るう。

二人の生きる軌跡を通じ、日本における暴力団排除の問題や、政府の大規模イベントに伴う様々な闇、裏社会の表社会への浸透、立場の弱き者はどこまでも損をしていく世の中、そんな日本の現状が淡々と語られていく。そこには、月村さんの現代に対する素直な義憤を感じざるを得ない。

社会への義憤はもちろん印象的だが、冒頭述べた通り、個人的には、本作では人間性とは何かを考えさせられることしきりであった。「人間らしさ」や「人間味」や「人間性」とは、通常、好ましいものとして使われることが多い。しかし、本作ではやや異なるのである。

カタラグループでは女性を風俗に落とすことを何のためらいもなくやってのけ、その後も、アドルーラーでは部下を自殺に追い込んだことに一かけらの良心の呵責も無く、生まれた子供の名前すら知らずに離婚することになる海斗は、翔太はじめ他の登場人物から、その「人間らしさ」を折に触れ指摘される。ときには皮肉をもって、ときには驚きをもって、ときには哀惜をもって。それはまさに、「人間性」が持つ「悪」の側面だ。

難病を抱えた妻と娘を愛し、印刷工として働く翔太と、過去の経緯がきっかけで失脚しアドルーラーを退職、離婚をも余儀なくされた失意の海斗が、最後、とあるつてで再開する。海斗はこれまでの自分を悔いることなく、捲土重来を期すという。しばし言葉を交わした後、半暮を背景に、分かり合えないまま二人は別れ、物語は終わる。

作中で、海斗に悪人のレッテルを貼って徹底的に断罪して改心させることは可能だろうし、そこにある種のカタルシスはあるのかもしれない。ただ、本作では、安易とも言えるその道を選ばなかった。

海斗を単に断罪する代わりに、信頼できる相手と生活を共にし、苦しみながらも更生しようとする翔太の人生と対比させることで、「悪」を含まざるを得ない「人間性」の分かち難い二面性を印象付けることに成功したのではないかと思う。

読者が人間であるとするならば、海斗と翔太に代表される、ある意味両端とも言える人間性から逃れることはできないのではなかろうか。

読者は、作中の翔太に深く同情しつつも、翔太の人生を歩みたいとは思わないはずだ。同じ生きるなら、むしろ社会的に成功を目指す海斗になりたいのではないか。僕らが海斗にならないのは、「人間性」豊かだからではなく、知恵と才覚と機会が足りないだけなのではないか。

そう、海斗と翔太は、揺れ動く我々自身の象徴なのだ。

『半暮刻』は、2020年代の現代日本を活写した作品としての素晴らしさはもちろん、そのような、人間性の持つ崇高さと悪とを遺憾なく表現した作品として、時代を超えた、普遍的な魅力を持つ作品ではないかと思うのである。

■双葉社作品紹介ページ
https://www.futabasha.co.jp/book/97845752468100000000

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笑いと叙情と業と、潜在する狂気~『パーマネント野ばら』~ [読書]

西原理恵子『パーマネント野ばら』が好きで、折に触れて読んでいる。『ぼくんち』も『できるかな』も『いけちゃんとぼく』も好きだけど、やはり『パーマネント野ばら』がよい。

地方の漁村を舞台にした、そこで生きる女性たちの話。娘を連れて出戻った主人公なおこの実家が、なおこの母が営む村唯一のパーマ屋、「野ばら」である。野ばらとなおこに加え、やはり村唯一のフィリピンパブのママであるみっちゃんや、彼女たちの友人知人の女性たちが抱える男への愛憎模様が、手を変え品を変え語られる。

なおこの母はとっくに離婚していて新しい愛人を作ってはいるものの、その男は、なおこの母よりはるかに年上で不細工な近所のナス農家のおばさん(おばあさん?)を気に入って同棲。そのため野ばらに寄り付かない。それで不機嫌な母親に振り回されるなおこ。

みっちゃんは、旦那が店の若いフィリピーナを口説いて浮気したことに激怒し、車で追いかけまわして轢いて重傷を負わせる。しかし、ベッドでの「さすがワシの嫁や」という旦那の拍手につい笑ってしまい、やがて正式に離婚して別居した後も、金の仕送りをするような関係を続ける。

港近くのまぐろ料理屋のひろこちゃんは、結婚して20年。店と居間の6畳間しかない家で暮らしつつ、旦那から、「靴下を出して。場所が分からん」と言われたことで何かが切れ、旦那を包丁で刺してしまうも、なおこらの証言もあって何とか揉み消し、甲斐甲斐しく旦那の入院の世話をする。

多情で酒飲みである、ジュータンパブ(?)のゆきママは60歳。あるとき、ふと会った男に恋をしてしまい、なおこやみっちゃんらから冷やかされ励まされながら男をラブホにはたきこみ関係を持つも、すぐに捨てられ、別れてしまう。「好きな男のいなくなったあとのふとんは 砂をまいたみたいだ」

他にも色々な男と女のカタチをどこか滑稽なテイストで見せつけられるが、それらは、ゆきママの母であるおばあちゃんが、自身の亭主の死に際して言った言葉に集約される。

「逃げるか死ぬかして先におらんなってもらわんと困るもんが 男じゃ」

そう。作中では、彼女たちは残り、男たちは去っていく。

そんな中異彩を放つのが、主人公なおこの恋だ。序盤から、40~50代のロマンスグレーの男と交際している描写があり、彼との、どこかほのぼのとした、それでいて幻想的な会話のシーンが繰り返される。それが終盤に急転。

「好きな人を
 忘れてしまったのに
 
 恋をしている私は

 もうだいぶん
 くるっているのかもしれない」

そのような男は現実に存在せず、すべてなおこの妄想であることが示唆されるのである。現実の生活のにおいて男との仲に悪戦苦闘する女たちの中で、それはあまりにも清浄であり、それでいてずしんと来る。みっちゃんやゆきママたちに比べ穏当な言動に終始していたなおこの狂気には、確かな絶望と説得力を感じてしまう。

生きるとは男と女の関係だけではない。でも、人類が長年培ってきた男と女の関係への思慕は、生きている以上、逃れることのできない業であると言っても過言ではないと思う。しかしそれは、時にあざとく、時に汚く、ときに見苦しい。

『パーマネント野ばら』は、あざとく、汚く、見苦しいとも言える中高年女性たちの男への愛憎を、笑いと叙情にくるめて面白く読ませてくれる。そして、そこに狂気の基調低音を偲ばせることで、面白さの板子一枚下が地獄であることも仄めかす、稀有なエンターテインメントだと思うのである。


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『香港警察東京分室』~ジャーナリズムと社会批評とエンタメと~ [読書]

月村了衛さん『香港警察東京分室』読了。

現代を切り取るジャーナリスティックな視点と、社会の現状への痛烈な批評、そして登場人物の掘り下げや活劇とが融合した、ハイレベルのエンターテインメントだった。

国境を越える犯罪に対処するため、ICPOの仲介の体で日中間で覚書が締結され、香港警察の捜査員が日本に常駐するとともに、日本の警視庁組織犯罪対策部国際犯罪対策課に、そのカウンターパートである「特殊共助係」が設立。

日本の警察部内では、香港警察の接待係と揶揄され、「香港警察東京分室」と後ろ指を指されながら、香港と警視庁、それぞれ5人のメンバーが事件対応に動く。

本作での彼らの任務は、香港民主化の思想的指導者で、複数の死者を出した民主化デモを主導し、かつ助手への殺害容疑で香港警察から手配され日本に潜伏していると考えられる、女性研究者キャサリン・ユーの確保。

中国の相反する犯罪組織たちに加え、中国共産党政権の中枢である中南海、そして香港政府、日本警察、日本の政府中枢の思惑が入り乱れる中、日本側も香港側も、各人それぞれの過去を抱えつつ、各々の考える現在の任務に邁進する。

そのあまりの現代性は、まず香港である。97年の中国への返還以降、一国二制度とされた香港であるが、中国共産党政権が民主化の弾圧を進め統制を強化しているのは周知の事実。一国二制度を維持するとの英国との取り決めである2047年以降に向け、中国共産党政府は着々と既成事実を作りつつある。

次に、その設定。この作品の執筆が具体的に検討される中、あるいは、連載の最中に、中国の公安機関が他国の主権内で拠点を設け活動していた事実が相次いで報道される。例えば以下の通り。

≪BBC:中国、警察の出先機関を外国で設置か オランダが「違法」と非難≫
https://www.bbc.com/japanese/63396068

≪読売:中国警察の海外拠点、日本に2か所か…外務省が「断じて容認できない」と申し入れ≫
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20221219-OYT1T50232/

中国共産党政権が、この手の国際的な批判に応えるため、各国において合法的に捜査員を活動させる根拠を求めているとしても不思議ではないし、その意味で、作品の現実感が否応にでも高まる。もはや、ジャーナリズムを侵食しているとすら言えるのではないか。

加えて、本作が、現代の日本に対する月村さんの痛切な批評であり警世であるのは、一読すればすぐにわかる。本件の捜査の過程で、香港出身の参考人たちに語らせる香港と、日本。自由が失われようとしているのは、果たして香港だけなのか。香港と日本の捜査員たちが時の政権の意向や組織の思惑に翻弄される姿は、政治とは自由とは何かを、改めて考えさせられる。

それでいて、本作は、心憎いほど、きちんとエンタメなのである。

「分室」の日本側メンバーと香港側メンバー、5人のそれぞれに、今そこにいる背景と理由と目的がある。特に、リーダーである特殊共助係の管理官、水越真希枝警視は、それらを十二分に感得しつつ、日本の警察というものの役割を果たすべく、柔和にしてのらりくらりと指揮を執る。キャサリン・ユーを追う謎解きも、銃撃戦やカーアクション、登場人物たちの裏切りや隠された人間関係も、いずれも、それだけをとってもしっかり楽しめる娯楽小説なんである。

このように、現代を切り取るジャーナリズムであり、現代日本を憂う社会批評であり、そして人物とミステリーとアクションを兼ね備えたエンタメでもあるという非常に重層的な読書体験を、『香港警察東京生分室』はもたらしてくれる。本作が直木賞候補作となった事実は、日本の読書人の矜持といっても過言では無かろう。

今回も行きがかり上、設定等に若干の協力やアイデア出しをさせていただいているが、僕の断片的なアイデアや指摘を骨太の物語にまとめ上げて見せる月村さんの手腕には、10年以上の付き合いながら、毎度毎度新鮮な驚きを禁じ得ない。

さて、SNSなどでたまに見る、「日本では社会批評をするエンタメが評価されない」との言説。それは、発した当人のエンタメや社会批評に関する知識や認識の浅さを露呈するものではないかと、その御仁のために危惧する。

少なくとも、その御仁が、本書、『香港警察東京分室』を読んでいないことは、間違いないのではないかと思うのである。

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『メイドインアビス』雑感~生命観と倫理観のざわつき~ [読書]

最近折に触れて、『メイドインアビス』を読んでいる。面白い。

世界に残された謎としての大穴「アビス」。そこは、獰猛な生物たちが跋扈し、現代のテクノロジーを超えた貴重な遺物たちが眠る秘境。遺物を求め、あるいは己の好奇心に突き動かされ、それぞれの目的をもって、多くの「探窟家」たちが「アビス」に潜り、挑む。『メイドインアビス』は、そんな、アビスと、アビスを巡る探窟家たちを描いたファンタジー作品なんである。

主人公リコは、アビス深くへの「絶界行(ラストダイブ)」のゆえに生死不明とされた著名な探窟家、「殲滅卿ライザ」の娘であり、アビスの浅めの層での探窟を生業とする孤児院で暮らしつつ、母への切なる思いとアビスへの好奇心にあふれる少女。

彼女がアビス内で危機に陥ったとき、ロボットの少年レグに助けられたことで、物語の歯車が回りだす。リコとレグは孤児院での暮らしを捨て、二度と地上に戻れない覚悟でアビスへの探窟を開始。アビスの奥深くへと潜り、様々な苦難を乗り越えて生き残りつつ、多くの人々と出会い、ときには戦い、ときには助け合い、探窟を進める。

どこか可愛らしく、それでいて稠密な絵柄で描かれるアビスの様は、生命の危機が常に隣り合わせの厳しさにありながら、なんというか、とても心地よい。『風の谷のナウシカ』『ウィザードリィ』『ダンジョン飯』『ベルセルク』その他もろもろ、過去に見たり読んだりした作品たちの養分が要所要所にしみわたっているような気がする。

とりあえず現時点で世に出ている11巻くらいまで読んだのだが、個人的に興味深いのは、作中の生命観と倫理観だ。その象徴とも言えるのが、「黎明卿ボンドルド」という存在かもしれない。ボンドルドは、リコの母ライザと同様、世界に数人しかいない「白笛」という称号を持つ大物探窟家である。

ボンドルドについては、すでにネット上で様々な情報や解説があるので詳しくはググって欲しいのだが、周囲の対象に惜しみない愛情を持ちつつ、自分の好奇心や目的達成のために、愛する娘はもちろん、自分自身の肉体すら、それこそあらゆるものをためらいなく犠牲にする、そんな存在。

中でも、アビスの呪いといわれる上昇負荷を解決する「カートリッジ」という技術の開発には、慄然とさせられる。

ちなみに、アビスのカギとなる概念の一つが上昇負荷。要は人間がアビスに潜る分には何の問題も無いが、下から上に上がろうとすると心身に深刻なダメージを被る現象。深い場所からの上昇であるほどそのダメージは厳しく、特に、六層と言われる深層から上がる際には、生命を失うか人間ではない異形の存在に変容してしまう。なので、六層以下への挑戦は片道切符であり、事実上、人間社会からのドロップアウトを意味する。だからこそ、それは「絶界行」(ラストダイブ)と呼ばれるのである。

さて、そんな上昇負荷。親密な関係性にある人間同士であれば、いわば融通ができることに着目したボンドルドは、上昇負荷を一方に肩代わりさせる研究に着手する。そのため、自分の名声を利用して子供たちを集め、愛情を注いで育て、かつ、子供たち相互に親密な思いを抱かせ、過酷な人体実験を繰り広げる。その結晶が、カートリッジだ。

カートリッジとは、要は、子供の身体から、脳と脊髄と数日間生存するためだけの最小限の臓器を残してすべて剥ぎ取り、皮で包み、携帯できるよう箱詰めしたモノ。ボンドルドは、これを装備することで、過酷な上昇負荷を子供であったカートリッジに肩代わりさせ、アビスでの自由な上昇移動を実現したのである。

人体実験、誘拐、児童虐待、殺人etc。なんとでも非難出来よう。正直、胸糞と言っても過言ではない。このような、日常生活の感覚から見た倫理観のイカレっぷりと、ボンドルドの「白笛」としての実力は、他の作品ならば、例えば『鬼滅の刃』の無惨のように、まさに悪の権化ないしはラスボスとして断罪されてもいいような存在だ。しかし、『メイドインアビス』ではそうはならない。それなりの非難はされつつも、そういうものとして、世界に受容されている。

実際、ボンドルドは、リコたちと戦うも、お互いに殺し殺されることは無く、最終的には折り合いをつけて、リコたちの旅立ちを、ある意味探窟家の先輩然として見送る。また、主人公リコの旺盛な好奇心も、どこかボンドルドに似たものとして、作中随所で示唆されているのである。

このような倫理観の背景にあるのは、その生命観なのかもしれないと思う。『メイドインアビス』における生命の在り方は、どこか、不思議だ。もちろん、多くの場合は我々の日常生活で想起する生死であるといってもよいだろう。しかし、それ以外の様々な在り方も描かれる。

例えば、上昇負荷の影響などによってかつて人間であったものが異形の存在と変わった「なれ果て」であり、「白笛」の称号を持つ探窟家たちが持つアイテムとしての「白笛」の素材も、かつてその持ち主と精神的に親密な関係性にあった人間の身体が変容した「命を響く石(ユアワース)」であるとされる。そして何より、ここでもボンドルドの存在だ。

ボンドルドは、精神隷属機(ゾアホリック)という遺物を駆使したいわば精神生命体であり、身体が生命活動を停止したとしても、他の身体に人格や記憶を転生できる。そしてそもそも、彼の持つ「白笛」自体、かつての彼自身の身体だったものだとのこと。

その他、機械としてのレグや不死身とされる「なれ果ての姫」ファプタなど、日常用いる意味での「生命」という存在が、作中では、これでもかと相対化されている。

このような、我々が日常においてどっぷりと浸かっている生命観と倫理観に対する、ファンタジー世界を舞台としたささやかな挑戦が、読む者の心をどこかざわつかせ、得体のしれない魅力になっているのではないかと思われる。

とはいえ、『メイドインアビス』の物語はまだまだ続いている。これを書いている現在、作中では新たに「白笛」である「神秘卿スラージョ」がその姿を現した。

今後も、追っかけていきたい物語なんである。

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【読書】『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789~1815』 [読書]

『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789~1815』(鹿島茂著 講談社学術文庫)を読了。

フランス革命から、帝政、王政復古を生き抜いた男3人のクロニクル。三者それぞれについては、別途伝記などを読んだことはあるが、三人並んで論じられているのを読むのは初めて。

(ちなみに、ツヴァイクの「ジョゼフ・フーシェ」は神!)

まあ、タイトル買いというやつですな。いやあ面白かった。イタリア遠征を皮切りに世界史でも稀な軍事的成功を重ね、コルシカ島の下級貴族からフランス皇帝にまで成り上がり、欧州を席巻したナポレオンは有名過ぎるかもしれないが、他の二人もなかなか食えない。

フーシェは、情報の収集と陰謀がライフワーク。革命期をジャコバン派として生き残った後、警察大臣として、全国津々浦々にスパイネットワークを張り巡らす。スパイは、老若男女貴賎を問わない。名もない一市民から皇后ジョセフィーヌまで、全てスパイとして篭絡。

その情報力で、混乱するフランスの治安維持に成功するとともに、ナポレオンを相手に、自分の権力維持を最大限に図る。ナポレオンや対立者の私生活上の情報まで熟知した静かな恫喝は、パンチが効きすぎていて痛快だ。

一方のタレーランは、貴族階級出身のエピキュリアン。美女と美食と社交と博打、そしてそれらの元手、金銭をこよなく愛す。片足に障害があるものの、持ち前の頭脳や上流階級出自の洗練された振る舞いで人々を魅了し、革命やナポレオンの軍事行動により孤立するフランスの外交を支えた。

特にロシア、プロシア、オーストリアのパワーバランスを読み、ウィーン会議で「敗戦国」フランスの権益護持に成功したのは、「魔術的」といってもいい。だから、汚職?贈賄?内通?それが何?といった感じ。

この3人が愉快なのは、倫理や宗教などの社会のルールを、てんで信じていないことだ。

現れ方は違えど、あるのは強烈な自負。それが、ナポレオンにあっては、軍事的成功として。フーシェにあっては、革命後の治安の維持として。そしてタレーランにあっては、外交的成功として。

三人の自負は、公益とも少なからず結びついているのが面白い。

著者は、この自負のことを「情念」と呼び、ナポレオンの「熱狂情念」、フーシェの「陰謀情念」、タレーランの「移り気(蝶々)情念」を対比する。個人の情念のぶつかり合いが歴史を動かしている様子が、生き生きと表現されている。

600ページあまりの文庫をさくっと読み終えて、日本の閉塞感の原因のひとつに、この手の情念が不足しているからか、などとも考えてしまう。さて、我が選良諸子は、どんな情念を、どの程度持っているのか。折に触れて意識してみることにしよう。

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