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「安全」と「安心」についての覚書 [事件]

2020年3月時点、中国は武漢に端を発し、日本、韓国、インドといったアジアそしてイタリアはじめ欧米にも猛威を振るう新型コロナウイルス。

医療及び防疫に加え、日本ではイベント等の自粛要請によって経済の大幅な減退が指摘され、トイレットペーパーやマスクの売り切れが続出している。政府は様々な対策を打ち出し、情報提供を行い、報道は連日状況を大きく報じている。

日本では、PCR検査を巡り、データを取るためないしは人々の安心のため検査数を増やせという主張と、重症者の治療を優先するために検査数を抑制すべきという主張が対立した。

そんな中、「安全」と「安心」について漠然と考えさせられたので覚書までに書いておきたい。

「安全」と「安心」、どちらも似たような言葉ではあるけれど、その意味は結構異なる。ざっくり言うと、「安全」が客観的な状態であるのに対し、「安心」は人々の主観的な問題であると言えるのかもしれない。

一見、客観的な「安全」が保たれてさえいればよいようにも見えるが、そこに「安心」が欠けているならば、社会の不安定化は避けられない。「安心」が無い人々の行動は、例えばトイレットペーパーの買い占めだったり、不要なドクターショッピングだったりと、容易にパニックにつながり、客観的な「安全」すら掘り崩しかねない。

結局、「安全」を前提としても「安心」は必要なのであり、むしろ、社会の安定化のためには、「安全」は無かったとしても、「安心」があるだけで足りるとすら言えるかもしれないくらいだ。

もちろん限界はあるけれど、医療や土木技術、その他様々な技術や専門知識によって、世の中はかなりの程度「安全」を手に入れることには成功したと思う。また、「安全」を追及する技術や専門知識は、文字通り日進月歩していると言ってよいだろう。

だが、皮肉なことに、そのような「安全」の進歩が、人々を「安心」から遠ざけてしまっているのではなかろうか。「安全」を確保するための技術や専門知識は、もはやそれらの領域にいない人々の理解からは程遠いものとなりつつある。僕も含め専門外の多くの人間にとっては、それらの知識や技術は、理解度において、呪術やまじないと区別できるものではないとすら思う。

一方で、人々の教育水準は上がっており、専門外の知識についても、自分が専門外であるにも関わらず、様々な情報源を基に、「自分は理解している、できている。むしろ自分の感情に沿わない意見を言う専門家が誤っている」という錯覚に陥りがちだ。ここに、「安全」と「安心」の乖離が大きくなるきっかけがあるのではなかろうか。

先に述べたように、「安全」に関する技術や知識は日進月歩している。しかし社会を維持していくうえでの問題は、「安心」に向けての技術や知識およびその進歩が、専門家や政治家、役人、そしてそれらに含まれない人々、言い換えれば社会全般に、あまりにも欠けていることかもしれない。

日本の歴史を大きく振り返ると、政治は、儀式と祭祀と宗教の歴史でもあったと言えよう。大仏建立しかり、様々な護摩や祈祷もしかり。それが果たしてきた意味は様々であろうが、一つの大きな役割として、疫病や天変地異などにおいて、「安全」が必ずしも確保できない限界があったとしても、どうにかして人々の「安心」を確保したいという試みであったのではないかと思う。

コロナウイルスだけでなく、原子力発電や、台風やその他天変地異や事故など、かつてに比べて「安全」が進歩したとはいえ、限界もある。またそれ以上に、人々の「安心」に係る知識や技術は、いわゆるリスクコミュニケーション等でその萌芽も見えるとはいえ、まだまだ発展途上のような気がする。

そう。

我々の時代の社会に必要なのは、「安全」だけではない、大仏建立や加持祈祷を超えた、「安心」のための技術や専門知識を磨いていくことではないかと思うのである。

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3.11。9年前のある個人的な記録。 [事件]

以下の文書は、2011年3月12日の夜に書いたものです。


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昼過ぎに起きた休日、国立新美術館の「シュルレアリスム展」を見に行く。

六本木で降り、住宅地の合間を縫ってミッドタウン方向へ向かうと、頭上の電線がやたら揺れている。風もそんなに強くないのにといぶかしく思えば、近隣民家から、わらわらと人が出てきた。なんなんだ。

ふと頭がふらつく。素面だから二日酔いのはずは無い。
そうか。自分ではなく、地面が揺れているのだ。

しゃがみこんで揺れが治まるのをしばらく待ち、美術館へ。

一応、実家に東京で地震があった旨伝える。

美術館でも地震の影響は大きく、チケット売り場は一時閉鎖。館内に入場制限が敷かれているらしい。入場制限が解かれた後、「シュルレアリスム展」へ。

マグリット、ダリ、マックス・エルンスト、ミロなど既知の作家の他、アンドレ・マッソンやヴィクトル・プローネルなど、初めて見るものに目を凝らしていると、地面が動いた。マグリットの棺のオブジェを中心に、四囲に絵画のめぐらされた展示室、床には、自分を含めしゃがみこむ人々が。

その後1~2度揺れつつ、無難に鑑賞を済ませる。ヴィクトル・プローネルを知ったのが収穫か。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン)の文庫と、展覧会の図録を帰り際に購入する。

用があったので新宿に向かおうとしたが、地震の影響で、電車が止まっている。しょうがないので近所のファミレスでランチ。ミラノ風ドリアとほうれん草ソテーで、500円弱。

電車が動くまで時間がかかると踏んだので、持っていた本、「輝ける闇」(開高健)をファミレスでこってりと読む。

従軍記者としてヴェトナム戦争に参加した際の記録文学。大上段の思想や感傷よりも、冷静かつ的確な言葉が描く細部は、はるかに説得的に戦争を語る。半分ほど読み終えると、一時間半ほど経過。何がしかの動きがあろうと、駅に向かってみると、駅の階段に老若男女しゃがみこんでおり、構内も思い思いに座り込んでいる。

なんなんだ。

改札近く、メガホンを手に説明する駅員によれば、地下鉄は当面再開の見込みはないらしく、また、

「本日はJR線は運行停止を決定しました」

と預言者のごとくのたまう。まだ午後六時なのに。さすがに六本木から自宅は、徒歩では無理な距離。まいったなあ。

とりあえず、用があった新宿に徒歩で向かうことに。

青山から四谷方向を経由で向かったのだが、交差点などは、歩く人々の姿がひしめく。コートやスーツ姿で、会社帰りなのだろう。途中の公衆電話には、人々が長い行列。

そういえば兄からはけがはしていないとメールがきた。

途中信濃町で学会関連の施設を見に寄り道などしたものの、一時間半ほどで新宿到着。

用事があった店に入ってテレビを見ると地震のニュース。ここでようやく、地震が東北太平洋岸であったことに気づく。八戸とか、宮古とか、大船渡とか、気仙沼とか、仙台とか。

というか実家含まれてんじゃん。しかも震度7って。阪神大震災よりでかいんですけど。

モニターでは、津波が港を飲み込む映像が繰り返し繰り返し。王蟲の群れですか?これは。

遅まきながら事態のヤバさに気づく。実家にメール。電話はもちろんつながらない。

JRが動かなければ帰れないので、いささか途方にくれていたところ、都営新宿線が復旧したらしく、最寄りではないが近くの駅まで行けるので、そこから歩いて帰ることに。

で、都営新宿の改札にくれば、遅々と進まぬ数百メートルの行列。すぐ脇には同じレベルで大江戸線改札への行列が。どこのディズニーのアトラクションですか?

たっぷり一時間は並んでホームに乗れば、ラッシュアワー顔負けの混雑。たまたまドア横の隙間に滑り込むことに成功。

そこから出発まで、さらに15分ほど経過する。

時間調整等もあり、速度も通常よりは遅いものの、どうにかこうにか家路に向かうことには成功。

電車内のオブジェと化しつつ、「輝ける闇」の続きを読む。人いきれに蒸されつつ、ヴェトナムの湿気を思う。人々が銃撃から逃れ疾駆して小説が終わりしばらくすると、終点本八幡までたどり着いた。電車は惜しみなく乗客を嘔吐する。

都営の駅から部屋まで徒歩30分程度。

飲み物とおにぎりでも買おうと思い、駅近くのコンビニを覗くと、人がたくさんたむろっており、おにぎり、パン、サンドイッチ、弁当類は何も無い。無い。

5分ほど歩いて別のコンビニに入っても、事情は同じ。仕方ないのでスポーツドリンクとカニカマを買って、食べながら歩く。

深夜1時を回っているが、道を行き交う人は減らない。車道は車の長い列。おそらく、タクシーで帰宅するのも大変だったろう。

ようよう自室にたどりつき、メールを開くと翌日会社は臨時休業。まあ、しょうがないことだ。

しばらくすると弟と電話がつながり、惨状を聞く。家族に怪我人は無いが、ライフラインの切断が堪えているとのこと。

ネットニュースを見れば仙台市内沿岸部で2~300人死亡の見込みとのことで、あまりの多さに、数字が想像できない。

いやはや、シュルレアリスムよりシュールな出来事。

とりあえず、昨日の一個人の記録までに。

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いわゆる「表現の不自由展」の中止についてのあれこれ [事件]

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展の一つである「表現の不自由展・その後」の展示が8月3日で中止され、大村愛知県知事と、同展の芸術監督を務めた津田大介氏が相次いで会見した。

展示の趣旨や意図について、企画展のサイト(https://aichitriennale.jp/artist/after-freedom-of-expression.html)によれば、

『日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。』

ものだという。中でも、昭和天皇のご真影を焼いたような表現や、慰安婦像をほうふつとさせる少女像の展示がネット上などで大きな非難を集め、運営に問い合わせが殺到。名古屋市長の河村氏など一部政治家も展示に消極的な見解を示す中、脅迫を含む電話での非難などがあったことから、来場者の危険なども考慮し、展示の中止が決定されたとのこと。

展示作品そのものに対してはもちろんだが、展示中止の判断やそこに至る経緯に関しても、賛否様々な意見が飛び交っている。そこで、本件に関して自分なりに考え方を整理したいと思い、いくつかの論点ごとにまとめてみた。


■表現の自由について
まず大前提として、不愉快に感じる表現であったとしても、具体的な法益侵害が無い限り、つまり不法行為や犯罪にならない限り、「表現の自由」を享受すべきである。それは、昭和天皇のご真影や慰安婦に関する表現であっても、非実在青少年を描いた児童ポルノやフィクションの残虐表現についても、同じように認められねばならないと思う。(もっとも、個人的には昭和天皇を揶揄するような表現は趣味が良くないとは感じているが、、、)

その一方で、避難や抗議や疑問や要望を呈するのもまた、「表現の自由」ではある。しかし名誉棄損や脅迫、業務妨害などに当たるような抗議や非難は、そもそもそれ自体が犯罪や不法行為を構成する。その意味では、今回の展示中止に追い込んだ抗議や非難、特に脅迫に該当するようなものについては、例えどんな動機があったからといって許されるべきではないと思う。

法に違反する可能性のある過剰な抗議行動は、一般予防も加味して、できる限り刑事・民事責任を追及されるべきではなかろうか。


■公的機関による運営
今回の展示が公的機関による運営であり、税金が投入されていることから、表現に配慮すべきだったのではないかという批判もあったようだ。これについては、公的機関が運営しようがしまいが、税金が投入されようがされまいが、「表現の自由」自体は変わらないはずである。

変わるのは、運営側の説明責任ではなかろうか。税金を投入したならば、意思決定をした人は、有権者や納税者に対し、表現への批判や疑問に真摯に答えるべきだと思う。また、そのような表現を選択して展示した意図についても、運営側が説明をする責任は課されるとは思う。


■政治家の発言
河村たかし名古屋市長が、本件展示に対し展示を差し控えた方がよい旨発言したことも、それが政治家としての発言であり、検閲ではないかと話題になった。

個人的には、政治家であろうと、一個人が抗議や疑問や要望を呈するのはやはり自由だし、意思決定者に対し有権者に説明を求めた方がよい旨の意見を表明するのも自由だと思う。その意味では、検閲に当たるというのは言い過ぎではないかといささか思う。

また、一般に、指揮系統に基づく命令や指示、ないしは、脅迫とかの本人の意思を束縛するような圧力があったなら別だが、単に何か言われてめんどくさくて忖度して行動しただけだったら、一義的な責任は忖度して行動した人にあって、それをもって忖度させた人に責任被せるのはちょっと違うと思う。

一方で、本件展示に関し、具体的に運営に対し法令上の影響力を行使できる立場の政治家も存在する。もしかしたら河村氏もそうかもしれない。そのような政治家が、運営関係者に対し具体的に撤回するよう忖度を求めるような発言をしたのであれば、その影響力の不当行使が指摘される余地はあると思う。


■運営者側
本件では、芸術監督の津田大介氏や大村愛知県知事も、様々な観点から批判された。

個人的には、展示を取りやめたのは非常に残念だが、運営関係者および来場者の安全確保などを考慮すると、残念だが仕方ない。やはり、何よりもまず非難すべきは、脅迫等に及んだとされる行き過ぎた抗議であると思う。

一方で、運営者側の説明責任や運営に関する配慮は、不愉快に思う人々が相当する発生するであろう挑発的な表現を展示した割には、必ずしも十分だったとは言えないのではないか。

表現の意図、疑問や批判への対応などをきちんと伝える、もしくは疑問に丁寧に対応することは不可能ではなかったのではないかと現時点では思っている。また、運営上の課題、警備会社の手配、問い合わせ窓口の整備、警察との連携等々、運営手法そのものについて、事前想定が不足していたのではないかと考えている。

■今後に向けて
本件、行き過ぎた抗議が原因であったとはいえ、結果的に展示が中止されたのは甚だ残念であり、それこそが「表現の自由」への挑戦であるといっても過言ではないと思う。一方で、挑発的な展示をして多くの反響が出ることが予想された割には、説明責任や運営への配慮が足りなかったのではないかと疑念を持っている。

今後もこのようなことが起こりうるのは間違いないだろう。そのためには、
・行き過ぎた抗議の是正(必要に応じ、刑事・民事での責任追及)
・展示開催の際の警察や警備会社との連携、問い合わせ窓口運営についての整備
・非難や批判に対し真摯な応答をするための仕組みづくり
などが必要になると考えられる。その前提として、運営者側が、本件の企画決定や展示選定のプロセスなどをレビューし、今後のこの手の展示開催への参考になるような情報公開をしっかりと行っていくべきだと思う。

「表現の自由」は、はなはだ移ろいやすく、様々な立場から利用されやすく、それにも関わらず人間及び社会にとって必要不可欠な権利のはずである。不愉快な表現であっても、いや不愉快だからこそ、「表現の自由」は守られるべきだ。

繰り返しになるが、展示中止そのものは大いに残念だし、それを促した行き過ぎた抗議は強く非難されるべきである。とはいえ、今回の展示およびその中止に至るプロセスが、「表現の自由」を守るための知見を提供する一つのヒントになれば、一定の役割を果たすことができたのではないかと、個人的には思うのである。

<参考記事>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190804-00010002-huffpost-soci

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ワロエナイ、吉本興業の問題 [事件]

言わずと知れたお笑い芸人事務所の最大手、吉本興業を巡るゴタゴタが、なかなか収束しない。

宮迫・田村両氏の告発ともいえる会見、事態収拾に向けた松本人志氏の「松本 動きます」、加藤浩次氏のレギュラー番組における発言、グダグダであるとさんざん批判を浴びた岡本社長の会見、その他、パンドラの箱を開けたような芸人たちの告発や実情の暴露や、それらへの賛否両論等々。

そんな今回の吉本興業の問題につき、理解の一助として、事実関係と自分なりの考え方をまとめてみたいと思う。

報道によれば、事実関係は以下の通り。振り込め詐欺グループである反社会的勢力が関与したイベントの仕事に、芸人が事務所を通さないいわゆる闇営業で参加し、報酬を受領していた。当初は報酬受領を否定していた芸人も実は報酬を受領しており、それを公表しようとした芸人に対し、会社が圧力ととられる言辞とともにストップをかけ、隠ぺいを試みた。

つまり、反社が関わった闇営業と、その隠ぺい工作が当初の問題であった。ただ、それに加えて、従前から芸人との間で契約書を作成しない、若手芸人にあまりに過酷な事務所との報酬の割合など、これまで吉本興業で半ば冗談交じりに批判されてきた慣行が、コンプライアンスの観点から、割と真面目に、一斉に批判されることとなった。

今回の一連の騒動で強く感じたのは、吉本興業は売上規模が500億円程度の会社として、その体をなしていないということだった。

もちろん、エンターテインメント業界の特殊性もあるのかもしれないし、芸人を家族と考えるような独特の社風もあるのかもしれない。しかしその一方で、吉本興業は、業界の最大手として大きな影響力があり、芸人や取引先など多くのステークホルダーを抱え、そして多くの社員を雇っている大企業でもある。芸人に対し契約書がなかったりなんだりは非常に象徴的だ。

それは個人間の信用で成り立つ小規模な取引、それこそ家族経営の中小企業ならば許されうるのかもしれないが、吉本興業の規模では、それは成り立たない。なぜなら、規模の大きな企業や組織では、家族的な経営をしようにも、その前提である、全てのステークホルダーの情報共有が不可能だからだ。言い換えれば、会社がいくら家族と言ったところで、家族ではない他人との仕事を余儀なくされるのである。6000人を超えるという所属芸人のマネジメントの困難やその待遇が、いみじくも、家族的な経営についての限界というその事実を裏付けている。

会社組織やコンプライアンスに関する様々な法令は、企業が、特定少数の家族間ではなく、不特定多数の他人同士と取引することを前提に設定されている。吉本興業は、一方で、家族的な経営を詠いながら、一方で業界最大手として不特定多数の人々との取引を余儀なくされていたのであり、今回の事件が無くても、早晩これらの矛盾は噴出しただろう。

反社会的勢力との交際が元で引退した元大物芸人の島田紳助氏や、その他様々な有識者などが、この問題について見解を出しているが、個人的には、吉本興業の今後の方向性は二つかなと思う。

一つは、家族的な経営をそのまま温存すること。この場合は、マネジメントに係る人員を大幅に増員し、かつ、6000人を超えるという所属芸人の数を減らし、芸人とのコミュニケーションを密にしなければならない。加えて、吉本興業を解体・分社化・分権化を図り、責任者の目の届く範囲の規模でのビジネスを進める必要があるだろう。

もう一つ、現在の業界における規模と地位を確保するのであれば、法令に則った経営の大幅刷新は避けられない。芸人との契約の整備はもちろんだが、報酬体系の明確化、事務所を通さない営業に関するルール、不服申し立て体制の整備など、これまでの吉本興業の文化を大きく変えることになるだろう。もっともそれは、普通の会社ならば当たり前のことであり、これまで吉本興業が、いわばサボってきた結果とも言えよう。

さて、吉本興業の岡本社長は、会見で、「コンプライアンス」「芸人・タレントファースト」の徹底を図ると述べたとされる。コンプライアンスは当然として、最も重要なのは、芸人・タレントではなく、芸人の芸を楽しみ、それにお金を払う視聴者のはずである。

吉本興業の一連の問題、いろいろ意見はあれど、やはり最大の問題は、所詮は舞台裏のドタバタであり、視聴者から見て笑えないということではなかろうか。吉本興業が変わるのか、変わらないのかはわからない。ただ、日本のお笑いに吉本芸人がいないのはやはり寂しい。どうか今回の件をバネに、もしくはこれをネタにでもして、笑える芸人を、そしてコンテンツをじゃんじゃん世に送り出す仕組みを整えてほしいものである。

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【雑感】山口敬之氏のいわゆる「レイプもみ消し」について [事件]

■伊藤さん「抵抗した」 性暴力訴訟 「法に触れず」山口氏反論
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201907/CK2019070902000317.html

立証過程を見てないので推測だが、山口氏が酒に酔った伊藤さんに性的な接触をしたのはほぼ間違いないだろうし、その後の自己弁護的な発言や名誉棄損での提訴も、個人的な感情として正直カッコ悪いとは思う。事実認定次第ではあるものの、個人的には、何らかの責任を負うべきではないかとすら思う。

ただ一方で、本件、準強姦罪の刑事事件として山口氏を起訴できるだけの証拠が無いと判断されたこともまた、厳然たる事実である。

山口氏への逮捕執行が取り消されたこと、そしてその背景に菅官房長官や内閣官房の幹部と密接であるとされる警視庁刑事部長(当時)の指示があったことに、不透明さを感じるのは当然だ。しかし、それを「レイプもみ消し」というのはちょっと違うんではないかと思うし、その上で、この件を官邸の指示によるスキャンダルに繋げて議論するのには無理があるのではないかと思う。

理由は、本件の刑事手続きに、違法ないしは著しく不当なところがあるとは言えないからである。具体的には以下列挙するとおり。

・逮捕されなかった山口氏による逃亡・罪証隠滅がなされたわけではなく、山口氏は事情聴取などの任意捜査に協力しており、結果的に逮捕が不要だったこと
・警察による事件送致(いわゆる書類送検)後、検察官による不起訴の判断がなされていること
・もし捜査が不十分であるなら、検察は警察に再捜査を命じるか検察自ら捜査を行うはずだが、その形跡はないこと
・検察官による不起訴の判断に対し、検察審査会での審査も行われており、不起訴が相当との判断が改めて下されていること

つまり、逮捕執行の取り消し自体は、警視庁刑事部長の介入というある意味異例のことではあるかもしれないが、報じられているその後の推移を見る限り、元々逮捕が不要な事案であると言えるし、かつ、準強姦事件の捜査、および起訴の判断は、現行法に基づいて遺漏なく行われていると言える。

もし、逮捕をしなかったことで山口氏が海外に逃亡していたり、伊藤さんに連絡を取って被害届を取り下げるよう圧力をかけたりしていたとすれば、逮捕をしなかった責任が問われるのは間違いない。また、山口氏の行動により捜査が不可能になり送致ができなくなったとすれば、やはり逮捕しなかった責任が問われうるだろう。しかし、実際には警察段階での捜査は無事終結し、その結果は検察に送致されている。

また、警察の捜査結果を受けた検察が起訴・不起訴の判断をするにあたり、贈収賄や脅迫などの不当な影響力が働いた事実は今のところ認められないし、検察審査会の審査においても同様である。

結局、公開されている情報を前提に考えると、本件はもみ消されたわけではなく通常通り事件として捜査され、現行法にのっとって起訴・不起訴の判断が行われたと考えるべきであり、そのプロセスに特に違法性や著しい不当が見られるわけではない。したがって、「レイプもみ消し」は事実と異なると言わざるを得ない。また、捜査・起訴のプロセスに、違法性やそれに準ずるような著しい不当性が無いのなら、山口氏個人の行動についてはともかく、首相官邸のスキャンダルにはなりえないのではないかと思う。

もちろん、酒に酔って動けない女性をホテルに誘って性的な行為に及ぶのは非難されてしかるべきである。

ただ、刑事事件は「合理的な疑いをいれない」レベルでの高い証明基準が課されるため、証拠が少なければ有罪にすることはできない。また、例え憎むべき犯行であったとしても、証拠が少ない場合の見込みでの起訴は許されるべきではない。

その意味では、本件を民事事件で争うのは、性犯罪の被害者支援の一つの在り方として前向きに考えてよいと思う。刑事と異なり、民事の証明基準は「証拠の優越」であり、要は立証において相手方よりも相対的にわずかでも説得力があればその事実が認定されるからである。

ただ、一般論として、被害者が民事で争うにもハードルはある。訴訟手続きの煩雑さはもちろん、証人尋問等で性被害の記憶を再現させられるのは、大きな苦痛だろう。その意味では、民事手続きにも改善の必要があるのは間違いないはずだ。

不同意性交罪の新設が折に触れ議論になるように、性犯罪が話題になるとき、どうしても、刑法での構成要件や刑事手続きに目が行きがちである。しかし、性犯罪の被害者を支援する仕組みとして、刑事手続きは万能ではありえないし、むしろ様々な制約があって使いにくいとすら言える。

性犯罪に対する義憤および処罰感情の満足や、かこつけた政権批判の道具にするには、性犯罪被害対策はデリケートに過ぎると思う。やはり、民事手続きをはじめ、どうすれば性犯罪被害者に適切な支援が与えられるか、刑事手続きを超えて、総合的に考えるべきなのだとは思う。

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