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安倍元総理、国葬儀を巡る個人的な感慨 [事件]

2022年9月27日、選挙遊説中の銃撃により殺害された、安倍元総理の国葬儀が行われた。

武道館での葬儀には4千人ほどが参列者した他、会場周辺には、国葬に反対する個人や団体によるデモがシュプレヒコールなりなんなりの意見表明の声を上げる一方、一般献花の列は2万人を超えていたという。

いろいろ感慨はあるけど、個人的に何より感じたのは、賛否ある中、安倍元総理の国葬儀がテロや流血の惨事無く無難にとり行われたこと自体、日本社会の健全さや強靭さを示すものではなかろうか、ということである。

国葬儀に関し、決定以降、27日の実施が近づくにつれ、報道やSNSで、賛否の声がヒートアップしていった。反対の声の主な理由としては、
 ・国葬法がない現状、法的根拠が曖昧
 ・誰を国葬にすべきか、基準が曖昧
 ・閣議決定のみで決定され、国会の関与が欠けている
 ・税金で実施することが不適当
などがあった他、多くの反対意見の前提として、いわゆるモリカケ問題や、信者からの強引な献金徴収が問題とされている統一教会との関係などを理由に、そもそも安倍氏が国葬に相応しくないという認識があったように思われる。

一方、賛成の声としては、
 ・安倍氏の在任期間や在任中の功績に報いるべき
 ・外国による弔意を受け入れる場を国として設けるべき
 ・殺害された安倍氏の国葬によりテロを断固否定する姿勢を示すべき
 ・法的根拠や予備費の活用において瑕疵はない
などがあり、国葬を決定した岸田総理大臣も、国会等の場で説明を繰り返していた。

これら、反対賛成の意見がSNSや報道で応酬され、ときに過激に、ときに不謹慎にすら思えるような過熱ぶりを見せていた。報道機関による世論調査によれば、6割が国葬に反対と回答した一方、国葬差し止めの仮処分申請は棄却され、岸田総理はじめ国葬決定の意思は揺るがなかった。

僕個人としては、安倍氏が官房長官時代、内閣官房の末端スタッフだったこともあり、微かながら安倍氏への親近感を持っていた。また、そのあまりに不条理な殺害に怒りと悲しみを感じたことは間違いなく、安らかにお眠りくださいとは思っている。

一方で、国葬自体については、日常生活への影響がほぼ無いからか、関心が薄く、賛成でも反対でも無い、ほどほどの無関心であった。まあ、国葬は立法でも司法でも無いから行政であり、法的根拠も無いとは言えず、かつ権利侵害も無い以上、行政権を持つ内閣が決めた国葬ならば、好きにおやんなさい、くらいの気持ちでいた。

国葬への支出や過程に違法不当な面があれば、事後に司法で争えば足りるし、岸田総理の意思決定に不満があれば、次の選挙で落とせばいい話だし。

むしろ、SNS等で、感情をむき出しにして異なる意見の封殺を望む人々の言動の方に関心が向いていた。それらを見る限り、どちらかといえば国葬反対の意見の方が先鋭化・過激化の度合いを増しており、国葬が無事に行われるかどうか、もっと言えば、要人なり参列者なりを標的としたテロが起こらないかを何より懸念していた。

ところがだ。

反対派のデモも、それへのカウンターのシュプレヒコールもありつつ、国葬儀自体は事件事故もなく執り行われ、2万人を超える一般献花にも大きな混乱はなかった。SNSや報道の過熱ぶりを見た、自分の取り越し苦労だったのである。

これに、何より安堵した。

国葬の無事な実施を実現したのは、まず葬儀の運営関係者の尽力があろう。特に、安倍氏が公然と銃撃されるという失態を犯した警察の警備当局の、汚名返上を期す意気込みや周到さは、並々ならぬものがあったと思う。テロなどの目を摘んだであろうことには、素直に敬意を表したい。

また、安倍氏に弔意を示したいと願った人々の穏当な振る舞いもあろう。SNSなどで過激な言葉による様々な避難や批判の応酬があった中、国葬反対派に対するテロや暴力には及ばなかった。その意味では、国葬反対の意見を持つ人々も、その多くは、テロや暴力による儀式の妨害に走らなかった自制心があったと言えるのかもしれない。その他、国葬にそれほど関心がない多くの国民も、過激な言動に惑わされず、服喪するなり日常を送るなりしていたに違いない。

つまり、様々な意見を持つ人が、それぞれの立場で時には激しい意見を述べ合いつつも、テロや暴力で対立意見を屈服させることを選択しないという理想的なリベラリズムの姿が、安倍元総理の国葬儀で体現されたのではなかろうか。

これは、日本社会のある種の健全さと強靭さを示すものではないかと思うし、海外に誇れるべきものなのではないかとすら思う。

多様性のある社会では、個々人の異なる意見や意向が赤裸々に表に出てくるに決まっている。異なる意見や意向は、たいていの場合、不愉快な感情を喚起する。でも、人々の意見が全員一致するなんて、かなりの異常事態や限定的な問題でも無い限り、起こり得ないはず。世の中のたいていの事象は、人々の賛否が分かれるものである。

だからこそ、不愉快さをこらえつつ、ある意見も、それへの反対意見も、反対意見に対する意見も、犯罪や不法行為に至らない程度で自由に言い合える環境、言論を封殺し合わない環境が何より大切だと思う。

安倍氏の国葬儀は、図らずも、日本が多様性のある社会であることを示したと言える。

そして、この多様性のある社会は、ものすごく微妙なバランスでできており、社会を構成する人々の不断の努力によって、ようやく維持されるものであるに違いない。安倍元総理の国葬儀によって明らかになった、この、ある意味誇るべき日本社会の現状をきちんと守るべく努力すべきということが、安倍氏が我々に伝えた、最後のメッセージなのかもしれない。

そんな、個人の感慨なのである。


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R.I.P、上島竜兵 [事件]

「聞いてないよー!!」

■ダチョウ倶楽部 上島竜兵さん死去
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6426159

45回目の誕生日、その朝に見た最初のニュースが、上島竜兵氏の死去だった。人はいつか死ぬとは言え、なんてことだ。

子供のころからずっとテレビで見ていた芸人として、上島竜兵の存在は大きかった。リアクション芸、熱湯風呂、全裸、「聞いてないよー!」「訴えてやる!」「くるりんぱ!」などの定番ギャグ。マンネリと言うにはあまりにも完成度と様式美が高く、いつしか、登場と同時に、オチが分かってるのにもう期待して笑ってしまう自分がいた。

ハートに刻まれたきっかけは、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』。

回答できなかった方が逆バンジージャンプで飛ばされるクイズ?で、明らかに切れ目の入っている衣装で登場。案の定回答できず、「聞いてないよー!」からの発射で、空中で衣装が破けてほぼ全裸に。這う這うの体で地上に降りれば、「訴えてやる!」で決まり。

人間性クイズでのポール牧とのやりとりも圧巻だった。同性愛者を装う絶妙な演技で若手芸人を性的に誘うポール牧に対し、掟破りの逆ドッキリの刺客として登場した上島竜兵。ポール牧を襲わんばかりの狂気溢れる姿にはひたすら笑わされた。

トーク力もまるでなく、演出が無いと全く機能しないように見えるポンコツぶりも最高にイカしてた。

例えば、二憶四千万のものまねメドレーでダチョウ倶楽部として出演した際、最後の秋元康で登場も、終了後いじられて対応できず場の空気が凍り付いたとき、「ドレミファおじさんソラシドステップ♪」と自信なさげに口ずさみ、謎のスキップをかましたときの所在なさげな風情の味ときたらなかった。

その他、山城新伍とか西田敏行のものまねや、言わずと知れた「押すな、押すな、押すなよ??」の熱湯風呂、後輩の有吉弘之から「豚の死骸」と罵られる様、そして近年での志村けんとのコントなど、名シーンは数知れない。

人から馬鹿にされつつ、笑わせるというより笑われつつ、不器用さをひたすらに積み重ねたその姿が作る笑いは、歌でもトークでもコントでも演技でも何でもこなす最近の器用な芸人たちとは一線を画した、独特の温かさと凄みがあった。

とはいえ、もう61歳だったのか。

自分ももう立派な中年なんだけど、子どものころブラウン管のテレビに映っていた上島竜兵は、いつまでも笑わせてくれると思っていた。そんなはずはないのだけど。

個人的には、あと2~30年元気でダチョウ倶楽部が活動してくれていて、「熱湯風呂」が、平成の無形文化財になる姿を見たかった。そのことが、少し、心残りと言えば心残りである。

ともあれ、理由や状況はどうあれ、芸人上島竜兵の生きた姿をもう見ることは無いのだ。上島竜兵のいない世界で、僕のアラフィフ人生は始まるのである。歯を食いしばって生きるしかない。

一視聴者に過ぎなかった身だけど、竜ちゃん、今までありがとう。ご冥福をお祈りします。

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「安全」と「安心」についての覚書 [事件]

2020年3月時点、中国は武漢に端を発し、日本、韓国、インドといったアジアそしてイタリアはじめ欧米にも猛威を振るう新型コロナウイルス。

医療及び防疫に加え、日本ではイベント等の自粛要請によって経済の大幅な減退が指摘され、トイレットペーパーやマスクの売り切れが続出している。政府は様々な対策を打ち出し、情報提供を行い、報道は連日状況を大きく報じている。

日本では、PCR検査を巡り、データを取るためないしは人々の安心のため検査数を増やせという主張と、重症者の治療を優先するために検査数を抑制すべきという主張が対立した。

そんな中、「安全」と「安心」について漠然と考えさせられたので覚書までに書いておきたい。

「安全」と「安心」、どちらも似たような言葉ではあるけれど、その意味は結構異なる。ざっくり言うと、「安全」が客観的な状態であるのに対し、「安心」は人々の主観的な問題であると言えるのかもしれない。

一見、客観的な「安全」が保たれてさえいればよいようにも見えるが、そこに「安心」が欠けているならば、社会の不安定化は避けられない。「安心」が無い人々の行動は、例えばトイレットペーパーの買い占めだったり、不要なドクターショッピングだったりと、容易にパニックにつながり、客観的な「安全」すら掘り崩しかねない。

結局、「安全」を前提としても「安心」は必要なのであり、むしろ、社会の安定化のためには、「安全」は無かったとしても、「安心」があるだけで足りるとすら言えるかもしれないくらいだ。

もちろん限界はあるけれど、医療や土木技術、その他様々な技術や専門知識によって、世の中はかなりの程度「安全」を手に入れることには成功したと思う。また、「安全」を追及する技術や専門知識は、文字通り日進月歩していると言ってよいだろう。

だが、皮肉なことに、そのような「安全」の進歩が、人々を「安心」から遠ざけてしまっているのではなかろうか。「安全」を確保するための技術や専門知識は、もはやそれらの領域にいない人々の理解からは程遠いものとなりつつある。僕も含め専門外の多くの人間にとっては、それらの知識や技術は、理解度において、呪術やまじないと区別できるものではないとすら思う。

一方で、人々の教育水準は上がっており、専門外の知識についても、自分が専門外であるにも関わらず、様々な情報源を基に、「自分は理解している、できている。むしろ自分の感情に沿わない意見を言う専門家が誤っている」という錯覚に陥りがちだ。ここに、「安全」と「安心」の乖離が大きくなるきっかけがあるのではなかろうか。

先に述べたように、「安全」に関する技術や知識は日進月歩している。しかし社会を維持していくうえでの問題は、「安心」に向けての技術や知識およびその進歩が、専門家や政治家、役人、そしてそれらに含まれない人々、言い換えれば社会全般に、あまりにも欠けていることかもしれない。

日本の歴史を大きく振り返ると、政治は、儀式と祭祀と宗教の歴史でもあったと言えよう。大仏建立しかり、様々な護摩や祈祷もしかり。それが果たしてきた意味は様々であろうが、一つの大きな役割として、疫病や天変地異などにおいて、「安全」が必ずしも確保できない限界があったとしても、どうにかして人々の「安心」を確保したいという試みであったのではないかと思う。

コロナウイルスだけでなく、原子力発電や、台風やその他天変地異や事故など、かつてに比べて「安全」が進歩したとはいえ、限界もある。またそれ以上に、人々の「安心」に係る知識や技術は、いわゆるリスクコミュニケーション等でその萌芽も見えるとはいえ、まだまだ発展途上のような気がする。

そう。

我々の時代の社会に必要なのは、「安全」だけではない、大仏建立や加持祈祷を超えた、「安心」のための技術や専門知識を磨いていくことではないかと思うのである。

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3.11。9年前のある個人的な記録。 [事件]

以下の文書は、2011年3月12日の夜に書いたものです。


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昼過ぎに起きた休日、国立新美術館の「シュルレアリスム展」を見に行く。

六本木で降り、住宅地の合間を縫ってミッドタウン方向へ向かうと、頭上の電線がやたら揺れている。風もそんなに強くないのにといぶかしく思えば、近隣民家から、わらわらと人が出てきた。なんなんだ。

ふと頭がふらつく。素面だから二日酔いのはずは無い。
そうか。自分ではなく、地面が揺れているのだ。

しゃがみこんで揺れが治まるのをしばらく待ち、美術館へ。

一応、実家に東京で地震があった旨伝える。

美術館でも地震の影響は大きく、チケット売り場は一時閉鎖。館内に入場制限が敷かれているらしい。入場制限が解かれた後、「シュルレアリスム展」へ。

マグリット、ダリ、マックス・エルンスト、ミロなど既知の作家の他、アンドレ・マッソンやヴィクトル・プローネルなど、初めて見るものに目を凝らしていると、地面が動いた。マグリットの棺のオブジェを中心に、四囲に絵画のめぐらされた展示室、床には、自分を含めしゃがみこむ人々が。

その後1~2度揺れつつ、無難に鑑賞を済ませる。ヴィクトル・プローネルを知ったのが収穫か。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン)の文庫と、展覧会の図録を帰り際に購入する。

用があったので新宿に向かおうとしたが、地震の影響で、電車が止まっている。しょうがないので近所のファミレスでランチ。ミラノ風ドリアとほうれん草ソテーで、500円弱。

電車が動くまで時間がかかると踏んだので、持っていた本、「輝ける闇」(開高健)をファミレスでこってりと読む。

従軍記者としてヴェトナム戦争に参加した際の記録文学。大上段の思想や感傷よりも、冷静かつ的確な言葉が描く細部は、はるかに説得的に戦争を語る。半分ほど読み終えると、一時間半ほど経過。何がしかの動きがあろうと、駅に向かってみると、駅の階段に老若男女しゃがみこんでおり、構内も思い思いに座り込んでいる。

なんなんだ。

改札近く、メガホンを手に説明する駅員によれば、地下鉄は当面再開の見込みはないらしく、また、

「本日はJR線は運行停止を決定しました」

と預言者のごとくのたまう。まだ午後六時なのに。さすがに六本木から自宅は、徒歩では無理な距離。まいったなあ。

とりあえず、用があった新宿に徒歩で向かうことに。

青山から四谷方向を経由で向かったのだが、交差点などは、歩く人々の姿がひしめく。コートやスーツ姿で、会社帰りなのだろう。途中の公衆電話には、人々が長い行列。

そういえば兄からはけがはしていないとメールがきた。

途中信濃町で学会関連の施設を見に寄り道などしたものの、一時間半ほどで新宿到着。

用事があった店に入ってテレビを見ると地震のニュース。ここでようやく、地震が東北太平洋岸であったことに気づく。八戸とか、宮古とか、大船渡とか、気仙沼とか、仙台とか。

というか実家含まれてんじゃん。しかも震度7って。阪神大震災よりでかいんですけど。

モニターでは、津波が港を飲み込む映像が繰り返し繰り返し。王蟲の群れですか?これは。

遅まきながら事態のヤバさに気づく。実家にメール。電話はもちろんつながらない。

JRが動かなければ帰れないので、いささか途方にくれていたところ、都営新宿線が復旧したらしく、最寄りではないが近くの駅まで行けるので、そこから歩いて帰ることに。

で、都営新宿の改札にくれば、遅々と進まぬ数百メートルの行列。すぐ脇には同じレベルで大江戸線改札への行列が。どこのディズニーのアトラクションですか?

たっぷり一時間は並んでホームに乗れば、ラッシュアワー顔負けの混雑。たまたまドア横の隙間に滑り込むことに成功。

そこから出発まで、さらに15分ほど経過する。

時間調整等もあり、速度も通常よりは遅いものの、どうにかこうにか家路に向かうことには成功。

電車内のオブジェと化しつつ、「輝ける闇」の続きを読む。人いきれに蒸されつつ、ヴェトナムの湿気を思う。人々が銃撃から逃れ疾駆して小説が終わりしばらくすると、終点本八幡までたどり着いた。電車は惜しみなく乗客を嘔吐する。

都営の駅から部屋まで徒歩30分程度。

飲み物とおにぎりでも買おうと思い、駅近くのコンビニを覗くと、人がたくさんたむろっており、おにぎり、パン、サンドイッチ、弁当類は何も無い。無い。

5分ほど歩いて別のコンビニに入っても、事情は同じ。仕方ないのでスポーツドリンクとカニカマを買って、食べながら歩く。

深夜1時を回っているが、道を行き交う人は減らない。車道は車の長い列。おそらく、タクシーで帰宅するのも大変だったろう。

ようよう自室にたどりつき、メールを開くと翌日会社は臨時休業。まあ、しょうがないことだ。

しばらくすると弟と電話がつながり、惨状を聞く。家族に怪我人は無いが、ライフラインの切断が堪えているとのこと。

ネットニュースを見れば仙台市内沿岸部で2~300人死亡の見込みとのことで、あまりの多さに、数字が想像できない。

いやはや、シュルレアリスムよりシュールな出来事。

とりあえず、昨日の一個人の記録までに。

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いわゆる「表現の不自由展」の中止についてのあれこれ [事件]

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展の一つである「表現の不自由展・その後」の展示が8月3日で中止され、大村愛知県知事と、同展の芸術監督を務めた津田大介氏が相次いで会見した。

展示の趣旨や意図について、企画展のサイト(https://aichitriennale.jp/artist/after-freedom-of-expression.html)によれば、

『日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。』

ものだという。中でも、昭和天皇のご真影を焼いたような表現や、慰安婦像をほうふつとさせる少女像の展示がネット上などで大きな非難を集め、運営に問い合わせが殺到。名古屋市長の河村氏など一部政治家も展示に消極的な見解を示す中、脅迫を含む電話での非難などがあったことから、来場者の危険なども考慮し、展示の中止が決定されたとのこと。

展示作品そのものに対してはもちろんだが、展示中止の判断やそこに至る経緯に関しても、賛否様々な意見が飛び交っている。そこで、本件に関して自分なりに考え方を整理したいと思い、いくつかの論点ごとにまとめてみた。


■表現の自由について
まず大前提として、不愉快に感じる表現であったとしても、具体的な法益侵害が無い限り、つまり不法行為や犯罪にならない限り、「表現の自由」を享受すべきである。それは、昭和天皇のご真影や慰安婦に関する表現であっても、非実在青少年を描いた児童ポルノやフィクションの残虐表現についても、同じように認められねばならないと思う。(もっとも、個人的には昭和天皇を揶揄するような表現は趣味が良くないとは感じているが、、、)

その一方で、避難や抗議や疑問や要望を呈するのもまた、「表現の自由」ではある。しかし名誉棄損や脅迫、業務妨害などに当たるような抗議や非難は、そもそもそれ自体が犯罪や不法行為を構成する。その意味では、今回の展示中止に追い込んだ抗議や非難、特に脅迫に該当するようなものについては、例えどんな動機があったからといって許されるべきではないと思う。

法に違反する可能性のある過剰な抗議行動は、一般予防も加味して、できる限り刑事・民事責任を追及されるべきではなかろうか。


■公的機関による運営
今回の展示が公的機関による運営であり、税金が投入されていることから、表現に配慮すべきだったのではないかという批判もあったようだ。これについては、公的機関が運営しようがしまいが、税金が投入されようがされまいが、「表現の自由」自体は変わらないはずである。

変わるのは、運営側の説明責任ではなかろうか。税金を投入したならば、意思決定をした人は、有権者や納税者に対し、表現への批判や疑問に真摯に答えるべきだと思う。また、そのような表現を選択して展示した意図についても、運営側が説明をする責任は課されるとは思う。


■政治家の発言
河村たかし名古屋市長が、本件展示に対し展示を差し控えた方がよい旨発言したことも、それが政治家としての発言であり、検閲ではないかと話題になった。

個人的には、政治家であろうと、一個人が抗議や疑問や要望を呈するのはやはり自由だし、意思決定者に対し有権者に説明を求めた方がよい旨の意見を表明するのも自由だと思う。その意味では、検閲に当たるというのは言い過ぎではないかといささか思う。

また、一般に、指揮系統に基づく命令や指示、ないしは、脅迫とかの本人の意思を束縛するような圧力があったなら別だが、単に何か言われてめんどくさくて忖度して行動しただけだったら、一義的な責任は忖度して行動した人にあって、それをもって忖度させた人に責任被せるのはちょっと違うと思う。

一方で、本件展示に関し、具体的に運営に対し法令上の影響力を行使できる立場の政治家も存在する。もしかしたら河村氏もそうかもしれない。そのような政治家が、運営関係者に対し具体的に撤回するよう忖度を求めるような発言をしたのであれば、その影響力の不当行使が指摘される余地はあると思う。


■運営者側
本件では、芸術監督の津田大介氏や大村愛知県知事も、様々な観点から批判された。

個人的には、展示を取りやめたのは非常に残念だが、運営関係者および来場者の安全確保などを考慮すると、残念だが仕方ない。やはり、何よりもまず非難すべきは、脅迫等に及んだとされる行き過ぎた抗議であると思う。

一方で、運営者側の説明責任や運営に関する配慮は、不愉快に思う人々が相当する発生するであろう挑発的な表現を展示した割には、必ずしも十分だったとは言えないのではないか。

表現の意図、疑問や批判への対応などをきちんと伝える、もしくは疑問に丁寧に対応することは不可能ではなかったのではないかと現時点では思っている。また、運営上の課題、警備会社の手配、問い合わせ窓口の整備、警察との連携等々、運営手法そのものについて、事前想定が不足していたのではないかと考えている。

■今後に向けて
本件、行き過ぎた抗議が原因であったとはいえ、結果的に展示が中止されたのは甚だ残念であり、それこそが「表現の自由」への挑戦であるといっても過言ではないと思う。一方で、挑発的な展示をして多くの反響が出ることが予想された割には、説明責任や運営への配慮が足りなかったのではないかと疑念を持っている。

今後もこのようなことが起こりうるのは間違いないだろう。そのためには、
・行き過ぎた抗議の是正(必要に応じ、刑事・民事での責任追及)
・展示開催の際の警察や警備会社との連携、問い合わせ窓口運営についての整備
・非難や批判に対し真摯な応答をするための仕組みづくり
などが必要になると考えられる。その前提として、運営者側が、本件の企画決定や展示選定のプロセスなどをレビューし、今後のこの手の展示開催への参考になるような情報公開をしっかりと行っていくべきだと思う。

「表現の自由」は、はなはだ移ろいやすく、様々な立場から利用されやすく、それにも関わらず人間及び社会にとって必要不可欠な権利のはずである。不愉快な表現であっても、いや不愉快だからこそ、「表現の自由」は守られるべきだ。

繰り返しになるが、展示中止そのものは大いに残念だし、それを促した行き過ぎた抗議は強く非難されるべきである。とはいえ、今回の展示およびその中止に至るプロセスが、「表現の自由」を守るための知見を提供する一つのヒントになれば、一定の役割を果たすことができたのではないかと、個人的には思うのである。

<参考記事>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190804-00010002-huffpost-soci

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