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短歌、俳句、夏~秋(2023年7月下旬~11月くらい) [その他]

寺子屋の闇に弾ける花火かな

夏空に白刃冴えて永久の闇

陽が炙るいろとりどりの不幸かな

どこからか花火の音がこだまして独りの部屋の空気震える

雨よぎりほとび流され蝉骸

夏の夜に蝿這う我の生き骸

うつらうつらする我が肌を蟻が噛みまだ生きてると叱れども咳

冷酒に海馬で泳ぐ鰻かな

路地を這う鼠仰ぐや夏の月

退屈の苦味芳し瓶麦酒

秋雨に声なき虫の息溶けて

夜独り帰る家路の音は秋

独り咳哀れみしみる虫の声

先にゆく虫すら妬むうき世かな

秋風に声を殺してなく虫はいくところ無き我が身なりけり

一本の木をも穿てず啄木の若き骸に恥じる白髪

悼まれし魂を羨む彼岸かな

照る月の光さやけし秋草に伏した屍の膚の青さよ

冴え冴えの月に炙られ川べりを海に向かって踏み出せどなお

金も夢も誇りも地位も棄て果てて棄て得ぬものはいのちなりけり

虫の食む骸と成りに生きる明日

孔明の魂を散らすや秋の風

屑漁る手足と顎をしばし止め見上げる虫の目に映る月 

外からは雨が聞こえる十月にもう一軒をおとなうかさて

立ち込める金木犀の夜道抜け明日一日は生きてみようか

湯気沁みて生きる未練の芋煮かな

望み失せつるべ落としの我が身かな

晒された恥を苛む秋の風

濁夜にせめて声張れきりぎりす明日の夜明けはありやなしやも

どんぐりを拾う不惑の独りかな

諸人が仮装楽しむ浮世こそ守り継げよと黄泉からの声

独り咳部屋に満ちては溶け失せて季節外れの蚊の羽音のみ

落ち葉さえ朽ちて芽生えの床なるに日々朽ちていくのみの我が身は

旅に出る気力も金も無いままに老い忍び寄る秋の夕暮れ

懐のスープの缶はあたたかく夜の家路に友のぬくもり

雨よ雨よ我を静かに溶かす秋

逝く人を悼めばおぼろ昴かな
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ぶんご商店、すっぽん鍋、出汁割 [新宿]

新宿に2店舗ある海鮮が美味い居酒屋、ぶんご商店で飲んでいると、あるメニューの張り紙が気になった。

「すっぽん鍋2500円」

ぶんご商店は、1000円も出せばかなり美味い刺盛を出してくれるし、その他の肴も酒も、かなりリーズナブルだ。そんな中、2500円という強気の値段設定。興味はそそられるが、その日は刺身とあら煮をキメていたこともあり、すっぽん鍋は頼まず撤退。

しかし、どうにも記憶の中から離れようとしないのである。

ある日、何気なくTwitter(X)を逍遥していると、友人のtweet(ポスト)に、ぶんご商店のすっぽん鍋を食ったと報と、その写真が。薄い醤油色の液体に、葱やら何やらが浮き沈みしている様子。おお、ついにやったか。味も悪くないらしい。すっぽんなど、まともに料理屋のコースで食おうとすれば、2~30,000円検討はするだろう。それが2500円か。

10年以上前に上野でスッポンを買ってゴールデン街の某店で煮て食って飲んで以来、そういえばすっぽんを食っていない。以来、脳裏にすっぽん鍋が明滅するようになる。

仕事帰りのある寒い夜、明滅するスッポンは、まるでカマキリに寄生するハリガネムシのように、僕の足を歌舞伎町のぶんご商店に運んでくれた。カウンターに通され鎮座。

すっぽん鍋だけだとちょっと気恥ずかしいので、鍋が来るまでのつまみに細切りこんにゃくの和え物を頼み、ホッピーセットではじめることに。ぶんご商店のホッピーセットは、ホッピーに添えられた中身の焼酎が、氷の入ったグラスにではなく、カップで運ばれてくる。これはよい。

周囲、自分より後に頼んだ品物がどんどん運ばれてくるのを横目にこんにゃくをつまみ、ホッピーを割って飲み始める。よもや、オーダーが通ってないのでは。そんな懸念が脳裏をかすめたとき、目の前に鍋敷きが置かれ、ようやく、湯気立つ鍋が登場した。

一人前強くらいの大きさの鍋に、醤油仕立ての汁。具材は、葱、麩、薄切りにした大ぶりの椎茸、そして、ところどころに浮き沈みする亀すなわちすっぽんの肉片である。椀によそって汁を一口。醤油と出汁ベースに、すっぽんの風味はややほのかに、むしろ椎茸の香りが強い。こういう感じか。

葱の甘み、汁の滲みた麩の良さは言わずもがな、椎茸はやはり主張が強い。で、すっぽん。肉はもちろん、皮膚や甲羅周りのゼラチン質の部分や、コクのある肝もきちんと入っており、コンパクトながら、すっぽんの全体がそれなりに楽しめる。臭みや苦みはほぼほぼ無く、魚でも鶏でも豚でも牛でもでも無い何かである。

なるほど、悪くない。

骨や甲羅についた身を啜ってすっぽんを堪能し、汁を残して一通り食い終えた。具材が山盛りと言うわけではなく、脂っぽくもないので、それほど腹にたまるわけではなさそうだ。雑炊を頼むか悩んだが、ここは出汁割でやることにした。赤羽の丸健水産はじめ、おでん屋などでよく見る出汁割、いい年をして飲まず嫌いでいたのである。

出汁割といえば日本酒が常だが、目の前にはホッピーの中身である甲類焼酎がある。こいつで試してみることにする。鍋の残り汁を入れた椀に焼酎を注ぎ、箸で軽く混ぜて飲む。

ほう。

すっぽんと椎茸の効いた汁の味はそのままに、アルコールの酔いがふわりくる。よい。日本酒だと良くも悪くも味が多く、それを意識した上での飲まず嫌いだったが、甲類焼酎だとほぼほぼアルコールの風味しかない。これなら、出汁の味を邪魔されずに楽しめる。

楽しくなって、汁と焼酎を割っては飲み割っては飲みを繰り返すうちに、鍋と焼酎のカップは瞬く間に空になった。雑炊も悪くないとは思う。しかし、自分で適当に作っては飲む出汁割は、これはこれで佳いものだ。

心地よい満足に誘われて店を出る。すっぽんはもちろん、出汁割の良さを認識できたのは素晴らしかった。今度は、日本酒で試してみることにしたい。

ぶんごのすっぽん鍋、そりゃ何万円もするようなすっぽん料理と比べたら、まあ引けを取るかもしれない。でも、僕のような稼ぎの無い人間でもたまには食えるすっぽんには、確かな価値があるはずだ。それは、世知辛い日常に、明日も生きてみようと思わせる、ささやかな喜びなんである。

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『半暮刻』~人間性に対する痛切な批評~ [読書]

月村了衛さん『半暮刻』読了。

もはや月村さんの定番といっても過言ではない、なまじな報道をはるかに超える鋭さを持つジャーナリスティックな視点と心憎いまでのエンターテインメントとの両立に加え、本作では、人間性とは何かを考えさせられる作品だった。

主人公は、翔太と海斗という、対照的な出自の若者二人である。

翔太は、児童養護施設で育った元不良。海斗は、高級官僚の家に生まれ有名私大に通う大学生。二人は、それぞれ別のルートから、会員制バー「カタラ」の従業員になる。ここはホストクラブでこそないものの、言葉巧みに女性を騙し惚れさせ、金を使わせて借金まみれにしたのち、風俗に落とすことが目的の半グレが経営する店。

店の〈マニュアル〉に沿って女性を陥れることに成功体験を覚える二人は、タッグを組んでさらに業績を上げていく。短期間でカタラの幹部にまで上り詰めようと勢いづく二人だが、その勢いは警察のカタラグループ摘発によって実にあっけなく潰え、二人は、生い立ちと同様に、全く異なる道を歩むことになる。

*以下、若干ネタバレ注意。

実刑という、否応なしに己の罪を見つめざるを得ない環境に放り込まれ、生きるために文字通り社会の底辺から足掻き続ける翔太と、事情聴取すらされず、これまでの人生に傷をつけることなくすり抜け、大学卒業後、大手広告代理店アドルーラーへの就職を勝ち取り、活躍する海斗。

足掻き続ける翔太は、仕事で出会った女性の影響で『脂肪の塊』を読んでから読書に目覚め、新たな自分の世界を開いていく。順風満帆に見える海斗は、着々と実績を重ね、政府のビッグプロジェクト運営の幹部となり、辣腕を振るう。

二人の生きる軌跡を通じ、日本における暴力団排除の問題や、政府の大規模イベントに伴う様々な闇、裏社会の表社会への浸透、立場の弱き者はどこまでも損をしていく世の中、そんな日本の現状が淡々と語られていく。そこには、月村さんの現代に対する素直な義憤を感じざるを得ない。

社会への義憤はもちろん印象的だが、冒頭述べた通り、個人的には、本作では人間性とは何かを考えさせられることしきりであった。「人間らしさ」や「人間味」や「人間性」とは、通常、好ましいものとして使われることが多い。しかし、本作ではやや異なるのである。

カタラグループでは女性を風俗に落とすことを何のためらいもなくやってのけ、その後も、アドルーラーでは部下を自殺に追い込んだことに一かけらの良心の呵責も無く、生まれた子供の名前すら知らずに離婚することになる海斗は、翔太はじめ他の登場人物から、その「人間らしさ」を折に触れ指摘される。ときには皮肉をもって、ときには驚きをもって、ときには哀惜をもって。それはまさに、「人間性」が持つ「悪」の側面だ。

難病を抱えた妻と娘を愛し、印刷工として働く翔太と、過去の経緯がきっかけで失脚しアドルーラーを退職、離婚をも余儀なくされた失意の海斗が、最後、とあるつてで再開する。海斗はこれまでの自分を悔いることなく、捲土重来を期すという。しばし言葉を交わした後、半暮を背景に、分かり合えないまま二人は別れ、物語は終わる。

作中で、海斗に悪人のレッテルを貼って徹底的に断罪して改心させることは可能だろうし、そこにある種のカタルシスはあるのかもしれない。ただ、本作では、安易とも言えるその道を選ばなかった。

海斗を単に断罪する代わりに、信頼できる相手と生活を共にし、苦しみながらも更生しようとする翔太の人生と対比させることで、「悪」を含まざるを得ない「人間性」の分かち難い二面性を印象付けることに成功したのではないかと思う。

読者が人間であるとするならば、海斗と翔太に代表される、ある意味両端とも言える人間性から逃れることはできないのではなかろうか。

読者は、作中の翔太に深く同情しつつも、翔太の人生を歩みたいとは思わないはずだ。同じ生きるなら、むしろ社会的に成功を目指す海斗になりたいのではないか。僕らが海斗にならないのは、「人間性」豊かだからではなく、知恵と才覚と機会が足りないだけなのではないか。

そう、海斗と翔太は、揺れ動く我々自身の象徴なのだ。

『半暮刻』は、2020年代の現代日本を活写した作品としての素晴らしさはもちろん、そのような、人間性の持つ崇高さと悪とを遺憾なく表現した作品として、時代を超えた、普遍的な魅力を持つ作品ではないかと思うのである。

■双葉社作品紹介ページ
https://www.futabasha.co.jp/book/97845752468100000000

ISBN978-4-575-24681-0-main01.jpg
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