SSブログ

三国志、好きな人物をなんとなく挙げてみる [歴史]

三国志、史書も好きだし、三国志演義もよい。小説なら吉川英治がメジャーだが、北方謙三も素晴らしい。マンガなら、横山光輝はじめ、『蒼天航路』も面白い。様々なフィクションに加え、ビジネス書的なものも含めれば、三国志に関する本は星の数ほどある。

そんな本をつらつらと読んでみて、なんとなく好きな人物、気になった人物をいくつか挙げてみたいと思う。

1:蜀漢
■諸葛亮
最初に三国志に触れてから心惹かれ、それから何周も回ってやはり好きな諸葛亮。神算鬼謀の軍師か、軍事が不得手な官僚政治家か。見方はいろいろあれど、三国鼎立の基本構想の立案と実行の立役者。また、君主の劉備はじめ有力武将たちが相次いで死を迎える中、丞相として完全覚醒した八面六臂の活躍と志半ばでの北伐の挫折は、後世の史家たちをも揺さぶる、大いなるロマンと言える。

■劉備
三国志演義では主人公格。演義では儒教的な君子っぽく描かれていたけど、作品によって描かれ方の幅が大きく、人物像がよくわからないのが面白い。関羽、張飛、諸葛亮といった人々に死力を尽くさせるだけの魅力は間違いなくあったし、それはそれで人徳だけの人と思われがちだけど、戦績を見る限り、軍隊の指揮は曹操軍の将帥にも劣らない。加えて、生き残る能力は見事。やはり梟雄には違いない。


2:曹魏
■賈詡
張繡配下としてその智謀で曹操を危機に陥れるも、張繡の降伏に伴い曹操に仕える。その後は、曹操幕下の謀臣として、馬超と韓遂への離間の策の提案など辣腕を振るい、曹操死後は、当時として臣下の最高位である三公の一つ、大尉にまで昇りつめた。乱世における身の処し方として、まさに明哲保身の鑑と言える。曹操を文字れば、「乱世の謀臣、治世の能臣」的な存在だと思う。

■張郃
韓馥、袁紹を経て曹操に仕え、半世紀近く戦い続けた歴戦の驍将。常勝と言うわけにはいかず、度々敗北こそするものの、諸葛亮の第一次北伐において、その後四度にわたる北伐をも含め実質的に北伐構想自体を瓦解させた街亭での勝利は見事。諸葛亮による第四次北伐での戦死も、らしいと言えばらしい。敵国の主である劉備は、魏の柱石である夏侯淵よりも武将として高く評価していた。


3:孫呉
■呂蒙
赤壁の戦いでの周瑜は確かに見事だけど、曹操の江東併呑の野望を濡須塢において最終的に葬り去ったのは、呂蒙ではなかろうか。呉下の阿蒙にあらずのとおり学問にも精を出し、将軍として大成。曹操の侵攻を防ぐとともに、荊州では世に隠れなき名将である関羽を討ち取った。惜しむらくはその早世。本人の尋常ならざる努力と度重なる試練がその心身を蝕んでいたのかもしれない。

■諸葛瑾
弟、諸葛亮の陰に隠れがち。各種フィクションだと外交官的な印象が強く、実際外交官的な仕事もこなしているけど、大将軍(上大将軍である陸遜の次)まで上り詰めてるし、主に軍事指揮官として経歴を積んだ人っぽい。呂蒙や陸遜のような派手な戦勝は無いけど、防衛線を任せられる手堅い将軍。年取ってもヤンチャで周囲を振り回す孫権を巧く抑えており、有能さが光る。


4:後漢末
■董卓
実質的に後漢王朝の幕引きをした大奸物。群雄たちの間隙を突いて首都の軍権を握り、皇帝を廃して殺し、新たに献帝を擁立し、権勢を一手に握り、洛陽と長安において富と権力と暴力をほしいままにして王朝の滅亡を印象付けた。直後、父子の誓いを交わした呂布に裏切られあっさり殺されて退場。特に『蒼天航路』で描かれた董卓の暴虐ぶりは見事で、ピカレスクの一つの形ですらあると思う。

■袁術
宦官誅殺を主導したり、同じ汝南袁氏一門の袁紹と反目して勢力を争ったり、他を圧するほどの勢力があるわけでも無いのに突如新王朝の皇帝を名乗ったりと、とにかく場当たり的で何をしたかったのかわからない。名門としての自意識を振りかざすだけ振りかざして中華に混乱だけをもたらしたトリックスター。面白いと言えば面白いけど、振り回される周囲や民草はたまったもんではなかったろう。


o0420063011178819030.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

北条早雲、あるいは伊勢宗瑞に関する雑感 [歴史]

新たな研究成果によって歴史が上書きされるのは世の常だが、戦国時代の武将では、後北条氏の祖とされる、北条早雲((1432年?)1456年?-1519年)がその好例かもしれない。

子供のころ見聞きした北条早雲は、出自がほとんど分からぬ伊勢の素浪人出身。50歳という当時としては老境と言ってもいい年齢から、駿河守護今川義忠の妾だった姉もしくは妹を頼って地歩を得て、機略縦横の活躍を見せ、伊豆と相模の国持大名となる。そして、以後豊臣秀吉に滅ぼされるまで、約100年続いた北条家の開祖となった。まさに下剋上と立志伝中の人物であり、戦国時代の幕開けを象徴する武将だった。

ところがだ。

現代の研究によると、先述の話がかなり変わってくる。まずそもそもの出自からして異なる。素性のわからぬ伊勢の素浪人などではなく、室町幕府において要職である政所執事を代々務めてきた高級官僚伊勢氏の一族であり、8代将軍義政の際に辣腕を振るった伊勢貞親の親類。何なら早雲本人も、9代将軍義尚の申次衆という、いわば側近の地位を得ている。

さらに、備中国荏原荘に所領があり、大名とは言えないが、素寒貧の浪人ではさらさらない。今川義忠に嫁いだ姉は、伊勢氏の家柄からすれば、妾どころではなく正妻。年齢も、従来の痛切よりは20歳以上若く、駿河に赴いたときは50代ではなく30代とされている。さらに言えば、北条氏を名乗ったのは早雲の息子である氏綱の代からであり、早雲本人は伊勢盛時あるいは出家後の伊勢宗瑞と名乗っていたようである。

このように、当時としては老境にある50歳過ぎにして裸一貫の素浪人が、己の知恵才覚で国持大名となり、北条氏を切り開いたというサクセスストーリーは、今日では旗色が悪い。では、北条早雲あるいは伊勢宗瑞が、単なる幕府の少壮官僚かと言うと、そうでもないのがまた面白いのである。

やはり、早雲最大の転機は、幕府の申次衆を辞め、駿河に赴いたことだろう。記録によれば、このとき、申次衆を退いただけではなく、備中の荏原にある所領を他人に譲り、先祖の菩提寺の管理も他人に任せている。鎌倉時代以降、一所懸命と言われ所領を守ることに血道を上げる武士としては異例だ。

駿河下向の背景にあったのは、まず、駿河守護今川家の後継者争いである。早雲の姉の嫁いだ今川義忠が戦死し、その遺児である竜王丸は元服前の幼子。今川家の血縁関係にある小鹿範光が駿河を専横する中、竜王丸の将来に不安を感じた姉が早雲に助力を求めたのが一つ。

もう一つが、駿河の隣国伊豆および関東の不穏な情勢だ。

関東では、足利将軍家から派遣され、東国における幕府の名代とも言える鎌倉公方と、その配下である関東管領上杉家との抗争が続いていた。鎌倉公方は鎌倉を追い出され、下総国の古河で再起を期す(古河公方)。幕府もそれに介入し、新たに鎌倉公方として義政の兄政知を派遣するが、政知は鎌倉にすら入れず、伊豆の堀越で逼塞を余儀なくされる(堀越公方)。政知死後、その遺児たちによる堀越公方家の主導権争いが発生。

さらにもう一つ上げるなら、上記情勢を巡る幕府内の政局である。

9代将軍義尚は、精神的・身体的にも不安定であることに加え、生前の義政は事あるごとに院政を敷き義尚を掣肘。その後継としては、義政の弟義視の息子である義材か、堀越公方政知の子である義澄が模索され、その間の駆け引きがあった。

このような情勢における早雲の駿河下向は、姉の要請であると同時に、駿河や伊豆の安定を目指す幕府首脳の意見とも一致した結果であろう。さらに言えば、早雲自身幕府での出世に見切りをつけ、おぼろげながらとはいえ、伊豆や関東に向けての自分の可能性に賭けてみたかったのではなかろうか。だからこそ、自分の所領を処分したのであり、そこに、戦国武将としての早雲の新しさがあると思う。

駿河下向後の早雲は、今川家の客将として小鹿範光を討ち果たし、竜王丸(今川氏親)の後見人的立場になるとともに、幕府、特に当時の将軍足利義澄の意を受けたものと思われるが、政知の死後堀越の地に残る兄弟を殺して主導権を握っていた政知の遺児茶々丸を討伐し、伊豆に橋頭保を得た。

以後早雲は、今川家の客将と幕府の代理人という立場を使い分けつつ、自分自身の所領拡大に向けても動き出すことになる。伊豆に加え相模に侵攻し、以後、後北条氏の拠点となる小田原城を奪取。史書によれば、例えばそれまで五公五民が通常だった税負担を四公六民に改めるなど、早雲の政治は民にとっては至極穏当なもので、伊豆相模の平和の実現と相まって、人心の収攬に成功した。

高級官僚とはいえ幕府の一役人に過ぎなかった早雲は、こうして、備中国荏原荘と比べればはるかに広大な、伊豆・相模二国の太守となる。有能な後継者である息子氏綱にも恵まれ、後北条氏が関東を制する土台が出来上がった。早雲としては、上出来の生涯だったのではなかろうか。

50代の素浪人が裸一貫で国を盗るというドラマではないものの、室町幕府の少壮官僚が、政争を続ける幕府に見切りをつけ、自分の可能性を試していくサクセスストーリーもまた、味わい深いものがある。その意味では、北条早雲いや伊勢宗瑞は、室町幕府の権威から生まれながらもその抜け殻を脱し、室町時代の枠組みをはみ出した、まさに戦国時代の幕を開けた人物に違いないと思うのである。


Soun_Hojo_portrait.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

元老雑話~伊藤、山県、西園寺を中心に~ [歴史]

明治から戦前の昭和にかけて、日本の政治には、「元老」という存在がいた。徳川幕府から明治政府への改革や、生まれたばかりの明治政府の維持発展に尽力した政治軍事の長老元勲たち。

彼らはそれぞれのチャネルを持って国内外の情勢にアンテナを張りつつ、天皇の諮問に応え、政府当局者に助言や指導をし、国政上重要な意思決定に参画する。特にその存在感が発揮されるのが、内閣総理大臣の選定である。元老たちは、時の内閣の生殺与奪の権を握っていたといっても過言ではない。

大日本帝国憲法に一言たりとも記載されていない存在であるにも関わらず、彼らは、国政に対して事実上大きな権力を行使する立場にいたのである。

1:元老たちの概観

そんな元老たち。その範囲や定義には専門家の間でも議論はあるが、薩長藩閥出身者を中心に、概ね以下が該当するとされる。

・伊藤博文(長州出身)
・山県有朋(長州)
・井上馨(長州)
・黒田清隆(薩摩)
・西郷従道(薩摩)
・大山巌(薩摩)
・松方正義(薩摩)
・西園寺公望(公家)

それぞれ簡潔に紹介すれば、まず、明治天皇からの絶大な信頼を背景に大日本帝国憲法の起草その他をリードし、当時のジャーナリスト池辺三山が元老政治の発明者と呼んだ伊藤博文。軍人出身ながら、陸軍のみならず官界や貴族院に自らの派閥網を張り巡らせ、晩年には伊藤を凌ぐ権勢を振るった山県有朋。伊藤博文の盟友であるとともに財界との太いパイプを持ち、外交と経済政策に一家言ある井上馨。

西郷大久保亡き後の薩摩閥の第一人者である黒田清隆。明治初期の困難な財政対応の矢面に立ち、その後も財政の専門家として盤踞する松方正義。西郷隆盛の弟であり、主に軍政面で活躍した西郷従道。日露戦争における満州軍総司令官として活躍した大山巌。

そして、元老中最も若く、第二次大戦開戦時および日米開戦の直前まで存命した、公家出身、最後の元老西園寺公望。

彼らはまとめて元老とは呼ばれるものの、それぞれの専門分野や国政への関心度合いも大きく異なる。

この中で、黒田は元老としての存在感を発揮する前に体調不良を重ね亡くなった。西郷は一時朝敵であった兄隆盛への配慮から、大山は日露戦争後内大臣として宮中のサポートに徹したことから、大臣や軍人としてはともかく、それぞれ元老としての存在感は薄かった。井上・松方は経済財政を睨み、往時は現職大臣と元老二人を指して「大蔵大臣が三人いる」と呼びならわされたが、国政全体への意欲は高くなかった。

その意味では、「元老」としてこそ活躍したと言えるのは、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望の三人であると言えるのではなかろうか。そこで、この三人の元老についてもう少し述べることで、自分にとっての明治・大正・昭和への理解の補助線としてみたい。

2:三人の元老。伊藤博文、山県有朋、西園寺公望

まず伊藤博文。

ITŌ_Hirobumi.jpg

言わずと知れた初代内閣総理大臣。長州の木戸孝允傘下で働きながら、新政府では薩摩の大久保利通の信頼をも勝ち得、国政の中枢に。木戸、大久保の死後、明治14年の政変で大隈重信を追い落とした後は、明治天皇の厚い信頼を背景に国政の第一人者として君臨する。総理大臣や枢密院議長や韓国統監や立憲政友会総裁など、次々と新しいポストを作っては自分で就任し、制度としての道筋をつけていく。

知的好奇心が旺盛で欧米の知識の吸収に余念が無い一方、物事の進め方は、理知的かつ現実的な漸進主義。逆境に遭うとさっさと辞職なり退却なりして、捲土重来を期す柔軟性の持ち主でもある。個人的な自負心と名誉欲に溢れ、しかも今日の基準ではスキャンダル必至の女好き。自分の能力への自信のためか、部下や派閥を育てる意識は薄く、その点は山県有朋とは実に好対照だ。

個人的に印象的なエピソードは、日露戦争後、満州への関与の強化を主張する児玉源太郎に対し、満州の施政に対して日本は国際法上の権利を有していないとして一喝したこと。日露戦争勝利の立役者である児玉大将の主張を頭ごなしに封じ、しかも理屈で鬼詰めしてみせる。伊藤が長州閥の先輩であるとはいえ、昭和の軍人による国政の壟断を思うと、健全な文民統制の凄みを感じる。

晩年は立憲政友会を立ち上げ、日本の本格的な政党政治に道筋をつけた他、韓国を保護国化した後に統監として辣腕をふるった。憲法起草や政党政治の運用、韓国の植民地化など、大日本帝国という、敗戦に至るまでの「この国のカタチ」を作った人と言えるだろう。まさに元老の第一人者である。

1909年、68歳。哈爾浜での安重根による暗殺は、様々な意味で惜しまれる。その一つに、政府での軍歴の無い文官ながら、国益のために軍部を真正面から批判し、抑えつけられる権威と権力と胆力を持った政治家の系譜が一つ失われたということがあるだろう。

次に山県有朋である。

Yamagata_Aritomo.jpg

幕末長州の奇兵隊を皮切りに軍人としてのキャリアを積み、新政府では徴兵制をはじめとした軍政の確立に尽力。その後行政、政治にも参画し、地方自治や司法行政などに従事。総理大臣や参謀総長など、政治軍事の頂点を経験しつつ、軍隊と行政機関と貴族院に強固な山県閥を作り上げ、晩年は元老として伊藤博文に拮抗、あるいは凌駕さえする権勢を誇った。

開明進取に富んだ伊藤と比べ、政治的には保守的であり、民主主義や政党政治には一貫して懐疑的ではあったが、倦まず弛まず知識や情報の収集と人脈の形成を続ける山県の、特に国際政治における判断は非常に鋭いものがあった。例えば、日英同盟の推進であったり、対華二十一か条要求への不満であったり、シベリア出兵への反対論など。

旺盛な権力欲をエネルギーに、政・軍・官界で作り上げた派閥網は山県に大きな権力をもたらしたが、晩年は、後継者と目を付けた指導者層をコントロールしようとするあまり、彼らと陰に陽に反目を繰り返すことになる。桂太郎しかり、寺内正毅しかり。最後は、皇太子の婚約をめぐる政争(宮中某重大事件)に敗れ、国政への影響力を失ってしまう。

1922年、83歳で亡くなったのち、山県が陰で君臨していたといってもよい軍部は、重しが取れたかのように、対外的膨張に向けて蠢動する。皮切りが、1928年の張作霖爆殺事件。

派閥網を通じて人を動かす政治手法や、保守的で慎重で閉鎖的な性格、さらに国民に信を置かない性質は、国民から好かれることは無かったが、新しい政治体制を作ろうと試みる伊藤博文との間の対立と協同の緊張関係を通じ、日本を強国へと押し上げる立役者になったことは間違いないだろう。池辺三山は、「棚卸しをしたら日本のためになったことがよほど多い」と評していたが至当だと思う。

そして、西園寺公望だ。

800px-Kinmochi_Saionji_2.jpg

薩長出身者からなる元老の中で、唯一の公家出身者。戊辰戦争への従軍や海外留学経験等を経て、主に伊藤博文の腹心として働き、文部大臣などを歴任。伊藤の立憲政友会立ち上げの際にはその幹部となり、伊藤の後、政友会の総裁に。日露戦争時、総理大臣桂太郎への協力と引き換えに、戦後総理大臣に就任。以後、明治の終わりから大正初期にかけ、桂と交互に政権を担当する桂園時代を現出させた。

西園寺は、例えば漢籍への教養は研究者顔負けと呼ばれるほど、非常に高い識見や文化的素養を持っていた。ただ、伊藤や山県のように、権力への意思や政治への意欲を表に出すタイプではなかった。そのため、政友会総裁時には、党勢拡大を試みる幹部の原敬に、何度となく歯がゆい思いをさせている。

伊藤が暗殺され、山県も亡くなり、松方正義も89歳の生涯を終えると、西園寺は生存する唯一の元老となった。西園寺は、その家柄からも政治的実績からも、元老として天皇を補翼する熱意こそ疑いないものの、元老としての在り方は伊藤や山県とは明らかに異なる。二人のように、己の意思をいかに通すかではなく、議会や政党や行政や財界や宮中や重臣などの関係をいかに調整するかに腐心した節がある。

おそらく、国そのもののカタチを作る過程にあった伊藤や山県と異なり、大日本帝国という仕組みをいかに運用するかが西園寺の主な課題だったのではないか。そのため、西園寺は元老を増やすことをしなかった。内閣なり政党なりを指導する人間が主導すべきであって、元老という、いわばイレギュラーな存在は無くなるべきと考えていたのだろう。

しかし、政党の腐敗や経済の苦境を背景に、軍部などによる暗殺やクーデターが喝采される昭和初期の日本で、西園寺は一定の権威を保ちつつも、それらを止める権力を行使しえなかった。1940年、西園寺が90歳で死んだ翌年、日米開戦。

3:元老の意義と限界

大日本帝国憲法やその他の法令に根拠を持たない元老という存在は、そしてその存在が強い権力を行使することは、確かにイレギュラーだった。ではなぜ元老が必要とされたのか。

一つが、国家的な事態における、いわば内閣の補完であろう。

例えば、日露戦争のような国家の存亡が関わる事態において、日常業務を抱える内閣を助ける意味で、閣僚等の経験豊富な元老たちがいるのは、国家としては悪いことではなかろう。ただ、内閣の当局者としては、いささかやりづらかったに違いない。

もう一つには、大日本帝国憲法のいわば不具合に関する保険があるのではないか。

大日本帝国憲法では、閣僚の罷免権が無いなど内閣を率いる総理大臣の制度上の権力が弱いことに加え、内閣と議会は制度上独立している。また、天皇は主権者にして統治権の総覧者とされるが、立憲君主制を律儀に守れば、内閣の意向を基本尊重することにならざるを得ない。この場合、何かのきっかけで内閣が機能しなくなった場合、天皇も動けず、国政全体が機能不全になってしまう。

元老は、そのような大日本帝国の不具合を解消するための、いわば保険だったのではなかろうか。

ただ、元老たちが内閣を主導していた時代や、桂園時代にはそのような事態は生じにくかったと思われる。ある内閣が機能不全になった場合でも、さっさと交代させて、他の元老や、桂ないしは西園寺が政権を担当すればよいのである。

日露戦争での元老の動きを見、桂園時代で内閣総理大臣として自ら政権を運用した西園寺は、後進である内閣や政党の指導者が実力をきちんと発揮できるならば、制度的にイレギュラーな元老は不要であり、自らは制度上定められた内閣や政党が機能することを期待して、最後の元老となることを決意したのだろう。

しかし、大日本帝国憲法の不具合は昭和に入って明確になる。軍部による政治の壟断や、テロによる要人殺害とクーデター未遂という裸の暴力と、それを支持する報道や民意に対して、結果論とは言え、大日本帝国憲法やその規定する政治体制はあまりにも無力だった。依然元老としての権威を持っていた西園寺も、伊藤や山県のような権力を振るえず、むしろ暗殺される危機にすらあった。

結局、そのような元老政治を克服し、かつ、テロや暴力ではなく、憲法に従った国政の運用には、敗戦と日本国憲法の制定を待たねばならなかった。

日本国憲法では、天皇は統治権の総覧者ではなく国家と国民統合の象徴となり政治的権能を有しない。内閣総理大臣は閣僚の人事権を持つため、内閣、すなわち行政へのリーダーシップが確立されたとともに、国会での指名に基づくことから、立法との協働もある程度担保されることになる。

伊藤博文、山県有朋、西園寺公望という三人の元老が日本国憲法に基づく今日の日本を見たら、どのような感想を持つだろうか、そんなことを、ついつらつらと考えてしまいたくなるのである。

nice!(0)  コメント(0) 

折に触れて雑感、諸葛亮孔明 [歴史]

諸葛亮、字は孔明。181年生~234年没。子供のころから、折に触れて彼のことを考えている。

言わずと知れた中国三国時代の蜀漢の宰相、諸葛亮は、荊州に寄寓していた流浪の将軍劉備から三顧の礼で招聘されて仕え、その死にあたって後事を託されるほどの信頼を得る。その信頼に応えるべく、劉備の子劉禅を補佐し、カリスマ・劉備死後の蜀漢王朝の安定化に尽力。

三国の魏はおろか呉と比べても貧弱な国力の蜀漢を支えつつ、晩年は漢王朝から禅譲を受けた魏を滅ぼすべく北伐を繰り返すが、その志半ばにして陣中に没する。まさに、秋風五丈原。物語『三国志演義』では、神算鬼謀の軍師として描写され、終盤ではもはや主人公と言っても過言ではない存在感である。

子どもの頃は、三国志演義やマンガから、やはり神算鬼謀の軍師というイメージが強かったが、歴史書である正史『三国志』などを読むようになると、峻厳な政治家にして軍事指導者像が浮かび上がる。そして、寿命の半ばは過ぎ、いい年のおっさんになった今改めて諸葛亮の業績を見ると、自らの思いのためにあらん限りの知力精力を絞り尽くした、一人の男の生き様が映ってくるようになった。

夷陵の戦いに大敗北を喫し、多くの将兵や人材を失っただけでなく、敗戦のショックで皇帝劉備まで失った蜀漢。後継者の劉禅はまだ幼く、劉備のような実績も名声もカリスマも無い。219年、劉備の漢中王即位で飛ぶ鳥落とす勢いだった蜀漢が、わずか四年後の223年、まさに国家存亡の危機に陥る。

丞相である諸葛亮は、まさに獅子奮迅の活躍でその危機を収拾する。しかも収拾だけでなく、新たに魏国への北伐を可能にする国内環境を整えさえしたのである。その間、四年ばかり。

おそらくは国内にあったであろう激烈な反対論を抑えて、劉備や関羽の仇であるはずの呉との同盟の復活。『三国志演義』では南蛮遠征として語られる南方の反乱鎮圧。その合間を縫って、魏国の状況調査や周辺異民族の懐柔や協力関係の模索、さらには一度は蜀を離れた魏将孟達への調略など、外交や軍事に余念がない。

その他史書には語られていないが、国内の治安や経済の回復、軍事動員体制や物資の輸送網の構築、人材登用と国家運用の組織整備、諸葛亮の国家指導体制の確立など、諸々の内政がなされていないはずはなかろう。それらの集大成、北伐の決意表明である「出師表」の上奏が、227年。

史書によれば、諸葛亮が政治の細部まで自ら目を通していたというワーカホリックぶりに、魏の司馬懿がその死を予期する描写があるので、これら、劉備死後の国の立て直しも、諸葛亮が全権を振るったに違いない。

いい年をして仕事をするようになると、これら、外交・軍事・内政で行われた各々の施策一つだけでも、それなりの大仕事であることが肌感覚でわかってくる。これを概ね四年で片づけた諸葛亮の辣腕ぶりには、ただただ驚嘆である。

そして、五次にわたるとされる、諸葛亮の北伐。

各次の軍事的評価については諸々あろう。ただ、敢えて漢の高祖劉邦が似たようなルートで漢中から三秦を滅ぼした時と比べてみれば、その差に愕然とする。

劉邦は、本人の能力はもちろん、謀臣である張良、内政に長けた名相・蕭何、そして、中国古代屈指の軍事的天才・韓信を擁していた。また、三秦の支配者たちは、項羽による秦軍捕虜の生き埋めを防げず、秦の民衆からの信望が無かった。整った人材と国力で、民の信望の無い支配者を討ったのだ。後知恵だが、これは勝てる。

しかし、諸葛亮の下には、高祖はおろか、張良も蕭何も韓信もいなかった。むしろ、それら全てを諸葛亮が兼ねなければならなかった。また、後漢末の戦乱をどうにか抑えた魏国の統治は概ね成功しており、人士もそれなりに支持していた。しかも、諸葛亮と対峙した魏国は、第一次北伐時の夏侯楙を除き、曹真、司馬懿、張郃らという当時の名将を投入し、加えて皇帝の曹叡も優秀。

そもそも国力で劣り、人材でも勝るとは言えず、政治状況も有利ではない。これで魏国を亡ぼそうという諸葛亮の試みは、率直に言って無理ゲーだ。

しかし、諸葛亮はそれに挑んだ。さらに驚くべきことは、皇帝劉禅はじめ、蜀漢の国内も、政治家や将軍から官吏や民衆に至るまで、そのことに大きな疑問を抱かなかった。特に民衆は、連年の動員や物資の挑発で、生活が苦しめられているにも関わらず、諸葛亮の政権や北伐を脅かすような大規模な反乱は、ついぞ起こらなかった。しかも、史書には民衆の怨嗟の声がほぼほぼ出てこないのである。

このような蜀漢の政治状況は、様々な要素からもたらされたものだろう。

崩壊してしまった漢王朝への思慕、漢王朝を滅ぼした魏国への素朴な怒り、劉備という強烈な人物の遺徳、国家としては貧しくても概ね公正な政治等々。そして、これらの要素を総動員した諸葛亮の手腕。

思えば蜀漢という国は、劉氏による漢王朝復興という目的をアイデンティティとした、イデオロギー国家だったと言えるのかもしれない。そこでは、無理ゲーに見える魏国への北伐は、国民にとって、息をするのと同じくらい自然なことだったのだろう。その仕組みを作った立役者こそは、諸葛亮のはずである。

諸葛亮は、234年、北伐の最中、五丈原の陣中で病没する。それは、漢王朝復興という蜀漢のイデオロギーを体現するために、知力と能力と精力の限りを燃やし尽くした人生だったと言えよう。

諸葛亮においては、その能力もさることながら、あまりにも精力的なその働きぶりこそが恐るべきである。おそらく、原動力の源は、名も無き若き日に稀代の英雄劉備に見出され、「水魚の交わり」として、その義兄弟ともいわれた関羽や張飛よりも厚遇されたことに対する、素朴な感動と感謝だったのではないかと思う。

ローマ皇帝アウグストゥスにとってのカエサル、西郷隆盛にとっての島津斉彬、アメリカ大統領クリントンにとってのケネディなど、歴史上の人物が、若き日に尊敬でき名声のある年長者の知遇を得た感動をその後の人生の原動力にすることは、少なくない。「士は己を知る者のために死す」。諸葛亮も、きっとそうだったのではないか。

さて、諸葛亮自らは、春秋時代の名相・管仲と、戦国時代の名将・楽毅に己をなぞらえていたらしいが、正史の編者陳寿は、管仲はそのままに、楽毅ではなく漢の名相・蕭何と並べ、諸葛亮を評している。

三国における弱小国蜀漢の宰相に過ぎず、北伐も奏功せず、世界史的な業績としては、諸葛亮は管仲・楽毅・蕭何に及ばないかもしれない。しかし、諸葛亮という人物の活躍と挫折は、その折々に色合いを変えながら、自分の心の中の一つの灯として、残り続けているのである。

a1024x1024l_FFFFFFFF.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

漢の三傑雑感~張良、蕭何、韓信~ [歴史]

漢の三傑、すなわち、張良、蕭何、韓信の三人の史伝を読むのが好きなんである。

まず張良。張良は、劉邦から「俺は張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決する事は出来ない」と評された策謀家であり、劉邦の意思決定をサポートする、まさに軍師であり参謀である。

戦国七雄の一つである韓の大臣の家系である張良は、婦女子の如くと言われた柔和な容貌ながら、韓を滅ぼした秦の始皇帝の暗殺を試みる硬骨漢でもある。劉邦に仕え、策略をしかけ献策を重ねるが、特に、劉邦が西楚の覇王項羽と対峙した際、儒者酈食其の献策により戦国の各国を復活させようとした劉邦に対し、七つの具体的な理由を懇切丁寧に説明しその翻意を促すくだりは、張良の軍師としての面目躍如たるものがあると思う。漢王朝成立後は公職からほぼほぼ引退し、皇帝家の相談に乗るくらいで、天寿を全うした。

次に蕭何。劉邦は蕭何につき、「蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させる事は出来ない」と評し、その手腕を高く評価している。その本分は、卓越した行政官であり政治家である。

若くして有能な下級官吏だった蕭何は、秦末の混乱に伴い同郷の劉邦をいただき、その幕下に参じる。劉邦が軍を率いて秦の故地関中およびその都咸陽に進駐した際には、財宝や美女には目もくれず、秦の法令文書や行政記録の保全に奔ったという。項羽との楚漢戦争では、出陣する劉邦の留守を守り、糧食や物資を供給し続けた。劉邦が漢の帝位についてからは、並み居る将軍を差し置いて功績首位に。漢では、丞相ついで相国として国政の最高責任者になり、劉邦の猜疑を躱しつつ何とか保身に成功。統一中華の礎を築いた。

そして韓信。「韓信のように軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない」と劉邦から評され、軍事指揮官としては折り紙つきである。確かに、楚漢戦争での軍事的活躍は戦国時代の楽毅や白起の活躍に勝るとも劣らない、中国古代史最高の将軍の一人だと思う。

韓信は素性もそれほどわかっていない。はじめ項羽に仕えたが逃げ出し、項羽から漢王に封じられた劉邦に仕えるも、閑職に回され逃げ出しかけたところを蕭何に説得され踏みとどまり、その推挙もあって、劉邦から破格の抜擢を受け軍事指揮官に。その後は、軍を率いて巴蜀から関中を併呑。別動隊を組織して、劉邦が項羽と対峙している間に、趙、代、燕、斉と各国を次々と攻略。国士無双の武功で、漢王朝では斉王、次いで楚王に封じられるも、反逆の嫌疑を受け、蕭何の策にかかり、得意の兵を挙げる前に粛清される。

漢による中華統一後、全てをあっさりと擲って隠遁生活に入った張良、保身に汲々としつつ相国として辣腕を振るい統一中華文明の基礎を作る蕭何、そして、圧倒的な軍事的実績を誇りながら叛乱の嫌疑をかけられて誅殺される韓信。

これらに比べると、高祖劉邦の能力や振る舞いは分かりにくい。しかし、彼ら三傑の力を存分に発揮させて秦を打倒し、西楚の覇王項羽を打倒し、漢王朝を打ち立てたその功業は、劉邦の存在無くしてはありえまい。むしろ、策謀や行政手腕や軍事といった三傑のそれぞれ卓越した能力でカバーできなかった「空白」こそが、劉邦の本領なのだろう。

張良、蕭何、韓信、そして彼ら三傑で埋めきれなかった空白を埋める、君主としての劉邦。

三傑の史伝そのままでもそれぞれ個性豊かで十分に面白いが、人間が大功を成すときに何が必要か、史伝を通じて知る劉邦による漢の創業の過程から、考えさせられることしきりなのである。

nice!(0)  コメント(0)