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大久保、辰家、スンデクッパ [食べ物系]

大久保のいわゆるコリアンタウンにある多くの韓国料理屋の中で、個人的に好きなのが、『辰家(ヂンガ)』である。

初めて行ったのは、もう15年は前だろうか。新宿ゴールデン街で飲み明かした午前5時、バーで同席していた年長のT氏から朝飯に誘われたのがきっかけ。T氏は最初別の店に行きたがっていたようだったが、早朝もあり開いてなかったので、仕方なさげに、「韓国料理でも行きましょう」と言われて連れていかれたのが最初である。

当時は、辰家ではなく『コリアンスンデ家』という店名で、24時間営業だった。

そのときT氏は、マッコリを飲みつつ、サムギョプサルを頼んだ。追加で、豆乳ベースの冷麺であるカルスックを食ったのを覚えている。朝からサムギョプサルを食らうという、自分としてははじめての経験にちょっとワクワクしたものだ。

それ以来、韓国料理を食いたいと思った時には、スンデ家を訪れるようになった。いつしか、店名も辰家に変わり、24時間営業ではなくなり、店の半分は、のれん分けだろうか、仕切られて異なる店となったが、訪れることには変わりはない。

辰家はまず、おかずがよい。

おかずというのは、韓国料理屋で出てくるお通し、あるいは先付のようなものであるが、良い店はそれが美味く、かつ、たくさん出てくる。辰家では、これが5皿ほど出るのがスタンダードだ。白菜キムチ、カクテキ、そして水キムチがほぼレギュラー。あとは、もやしだったりゼンマイだったりのナムルや、甘辛く煮締めた油あげなど、時に応じて少し変わる。

白菜キムチやカクテキは言わずもがな、個人的には水キムチが好みだ。氷の浮いた冷たい半透明の汁に浸った薄切り大根の漬物。キムチと言いながら辛くは無く、汁は塩気と微かな酸味とニンニクの風味が利いて、ちょっとよい。大根の歯触りもステキだ。

正直、おかずだけでマッコリ一瓶は飲めるとは思う。

他にも、サムギョプサルや各種鍋やチヂミやチㇺやら何やら、一通りの韓国料理はあるのだが、自分としては、スンデクッパを推したい。

スンデとは、米と春雨と豚の血と各種香味野菜を入れて蒸すなどした腸詰。基本的には、そのままスライスして、塩や味噌やアミの塩辛などをまぶして食う。腸の歯ごたえ、米と春雨のもちゃもちゃした食感に、動物質のコクと香味野菜の香りがして、これはこれでつまみとしてイケる。マッコリが進む。韓国料理ではあるが唐辛子は入っておらず、辛い物苦手な自分でも問題なく食える。

辰家は、以前スンデ家を名乗っていたように、スンデが名物でもある。

スンデクッパは、ぶつ切りにしたそのスンデを、白濁した豚のスープで煮込んだもの。辰家のヤツは、スンデの他、野菜類や刻んだ臓物類が入っており、これをアミの塩辛と合わせ白飯で食う。

グツグツ煮えた熱々で運ばれてくるスンデクッパ。スープを吸ったスンデは、特に春雨部分が膨張し、線がはみ出たケーブルのような見た目になっているが、それはそれでよい。プツンとした腸の歯ごたえに、膨張した春雨のプルンとした舌ざわり、ほとびた米は一部スープに交じって粥状になり、それらを包み込むような豚骨のスープの滋味。

スープにはスンデの豚の血がが溶け出し、白かった汁が食い進めるうちに淡い赤を帯びてくるが、汁にほどよいコクが合わさって得も言われぬ。スープの中の野菜や臓物も、よいアクセントとなり、食欲を後押しする。そこに、アクセントでアミの塩辛を加え、スンデの入り混じったスープを白飯にかけながら食うと、白飯が瞬く間に胃袋に吸い込まれていくんである。

さて、スンデクッパを食い終わると、当たり前だが、非常に満腹感がある。ここで、残ったおかずをデザート代わりに食い、飲み残しのマッコリをやっつけて、無事、その日の辰家が成就することになる。

汁と合わせるとはいえ、最初から米の入ったスンデで白飯を食うのは、どこか、お好み焼きでご飯を食べる関西を思わせるものの、こちらは米と米であり、より純度が高い気がしないでもない。腸詰というと肉を入れたソーセージをまず連想するが、韓国には異なる腸詰文化があるのだなあと、満ちた腹でしみじみする。

というわけで、自分にとって、好きな韓国料理とは、サムギョプサルでも無く、トッポギでもチヂミでも無い、スンデであり、スンデクッパなんである。

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ある暑い日、まるます家、鯉の旨煮 [食べ物系]

先日また、赤羽のまるます家へ行ったのである。暑い最中、休日だったこともあってか行列ができており、一応庇の下には入れるものの、店の人が保冷剤を配っていた。30~40分ほど並ぶうちに、その日の作戦を考える。

酒は日本酒が好みだが、赤羽の銘酒丸真正宗が無くなったのは寂しい。サッポロラガービールもよいが、ここは爽快感と他所であまり飲む機会の無いジャン酎にするか。食べ物は、鯉の洗いを頼むのは確定。鰻も名物であり白焼きで飲むのは最高ではあるが、適正価格ではあるものの、やはり自分の懐では安いとは言えない。揚げ物という気分でも無いし、と悩みつつ店の入り口近くに、鯉を推すポスターが目に入る。洗い、鯉こく、旨煮。

洗いと鯉こくは食ったことがあるが、そういえば、鯉の旨煮は食べたことがない。これで行こう。あとお新香なり何なりを頼めば、1リットルのジャン酎の肴としては、申し分あるまい。などとつらつら考えているうちに、行列は終わり、店内に入る。

カウンターにかけて、まずはジャン酎をどぶどぶとグラスに注ぎ、鯉の洗いをキメル。まるます家の鯉の洗いは、新宿は思い出横丁の岐阜屋における蒸し鶏と同じ位置づけであり、とりあえずの一品として申し分ない。旨煮にいきたいが、鯉が続くのもなんなので、セットアッパーに、たぬき豆腐ときゅうりの漬物。浅漬けを想像していたきゅうりがしっかりとぬか漬けだったのはポイントが高い。

ジャン酎を六分ほど飲んだ辺りで、いよいよ鯉の旨煮を頼む。

きゅうりを齧りながら少々待つと、鯉の旨煮が登場。平たい皿に、内臓も何もかも筒切りにした鯉が乗り、濃い醤油色と脂のギラつきが、攻撃力の高さを予感させる。いざ、箸をつけ、食らう。

おお。

第一印象は、舌の奥に突き刺さらんばかりの剛毅なまでの甘塩っぱさ。砂糖と醤油がこれでもかという風情。そして、その甘塩っぱさに負けない、鯉の力強い風味。それは、ぎっちりとした身はもちろんのこと、みっちりとした皮目のゼラチン質や脂、食感こそ残るものの噛んで食える鱗、そしてほろりとした臓物から放たれる旨味である。泥臭いとは感じないが、鯛やらのどぐろやらとは違う、まさに鯉としか言いように無い香りがある。

なるほど、これは、文字通り旨煮だ。

口の奥から脳髄にキンキンと響くような甘塩っぱさを噛み締めながら、辻留店主の辻義一が書いていた一節を思い出す。それによれば、京都に比べ江戸の料理はおしなべて砂糖と醤油を多く使うとのこと。江戸時代以降、当時は高級品だった砂糖と醤油をふんだんに使って見せることは、いわば料理人の心意気でもあったのではないかと推測している。もちろん、辻義一はそのことを決して褒めてはいない。

辻義一には敬意を払うとしても、鯉の旨煮のこの甘塩っぽさは、味覚を惹き付けて止まない何かがある。美味い不味いの話ではない。むろん毎日ではあり得無いが、ときおり無性に食べたくなるような、そんな味。体調もそんな気分だったのだろう。

みたらし団子のタレをも遥かに凌駕するようなこの甘塩っぱさに耐えるのは、鯛ではまず無理だろう。鰤ならいけなくもないだろうが、まだ鰤の方が弱い気もする。むしろ豚肉がありえなくもないが、さすがに豚の脂がくどすぎる。となると、やはり鯉が適任なのかもしれない。気が付けば、口の中の甘塩っぱさと鯉の風味をジャン酎で洗い流す機械と化す。

しばらく鯉の旨煮を堪能し、ジャン酎を平らげる。醤油色の皿を尻目に、最後、残しておいた二切れほどのきゅうりの漬物をポリポリとやり、まるます家を後にしたのであった。

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新橋、立ち喰い寿司、あきら [食べ物系]

先日の昼時、新橋の立ち食い寿司あきらに行ってきた。

とあるビルの地下一階。予約は受け付けて無いそうで、当日行って並ぶ。13時ころ訪ねると、店員女性から、14時ころの入店になるとの案内。寿司屋の隣、夜からの営業であろう閉まっているとんかつ屋がそれなりに美味そうに見え、空腹の身には眩しい。

行列に並んでいる間、寿司と飲み物の注文を取られる。寿司は、その日のネタと一貫あたりの値段を書いた紙が回ってきて、それぞれのところに食べたい個数をチェックする形式。ネタによるが、500~1,000円程度。なお、原則として、追加注文はできない。

これは悩ましい。回転寿司ならば、基本10皿、つまり20貫は食うところだが、普通の寿司でそれは若干多いだろう。やはり10貫くらいか。むむむ。10~15分ほど頭を悩ませ、以下のラインナップに決める。

・漬けマグロ
・マグロ赤身
・シマアジ
・コハダ
・スミイカ
・はまぐり
・ヤイトガツオ
・ウニ
・マダイ昆布締め
・白甘鯛昆布締め

いつもなら酒、つまり日本酒は欠かせない。しかし、その日は前日に痛飲しており、若干頭がふわふわする。昼飯時でもあるし、酒はお預けにしよう。そうこうしているうちに、先客たちが会計を終えぞろぞろと旅立っていく。寿司への思いが募る。で、入店。

カウンターは、L字型で8席ほど。狭い。椅子は無く立ち食いである分、ゴールデン街の店よりも狭い。カウンター内には職人さんがおり、あとはホール?の若い女性がカウンターと外を行ったり来たり、立ち働いている。いつしか、めいめいの席にお茶なり酒なりの飲み物が出され、いざ、寿司がはじまる。

一貫一貫握られる赤シャリの寿司は、総じて、各々大なり小なりきちんとした仕事が施されていて、素晴らしかった。印象に残ったものをいくつか挙げておこう。

■ヤイトガツオ
何かと思ったが、カツオではなく、スマガツオのことらしい。濃い赤身の色が鮮烈。口に入れれば、カツオのぎゅんとくる野趣強い旨味をそのままに、脂がじんわりまろやかで、かすかに柑橘の香り。寿司としての完成度が高い。

■はまぐり
まず大きい。一貫ではあるが、口の小さい人なら切り分けてもらってもいいかもしれない。そして、貝の香りがガツンときて、適度な火の通り方で歯応えが絶妙な身を噛み締める快感、溶ける滋味。仕込まれたツメの甘じょっぱさがまた心憎い。

■ウニ
いい年だし通ぶりたいので、ふだんあまり頼むことは無いのだが、せっかくだしと注文。宮城のムラサキウニ。黄色い輝きが軍艦に山と盛られる様に心躍る。それを口に入れて噛み、シャリと海苔の風味の中にとろけほどけていくウニの香りとコクには、ただただ美味さしかない。

追加はNGと聞いていたが、その日はネタの都合で、追加OKとのこと。いささか悩みながら、周囲の人々が食べていた北寄貝と、〆のトロたくがどうしても気になり、アディショナルタイムへ突入。

■北寄貝
はまぐり同様、大きい。貝の身を噛み締めるたびに切ないくらいの潮の香りが口の中に弾けていく。口の奥、舌の付け根にまできっちりしみ込もうとする貝の旨味ときたら、もう堪えられない。

■トロたく
〆の一品らしい。シャリよりマグロの方が多いのではないかと思う。手巻きに近い、緩めの巻き加減で手渡しされる。頬張って食うと、きっちりマグロがシャリと絡み、たくあんの酸味塩味がキリリ。

寿司は言わずもがなだが、職人さんと店員さんの織り成す接客の雰囲気も、心地よかった。正直、美味い寿司でも、狭い店内で緊張感が走ると美味さも半減してしまう。

寿司の会話はもちろんだが、職人さんの「寿司のあと、ラーメンとか食べたくなりますよね。俺がラーメンやるなら、煮干し。自信ありますよ」とか、店員さんの「(職人さんに)ビール飲ませないでくださいね。おしっこ近いので、トイレに行ったり来たりになっちゃいますから」などの軽口も、軽妙でよい。

いやはや、久しぶりに、寿司を堪能した。

普段回転寿司が関の山の身分として、回らない寿司は確かに安いものとは言えない。そうそう行くことはないだろう。ただ、寿司と、それを握り食らう人々の空間は、たんに生きるために栄養を取るということだけではない、かけがえのないものがあるのかもしれない。大袈裟に言えば、それは文化ではなかろうか。

健康で文化的な生活を送る権利は、日本国憲法にも定められているではないか。

せめて四半期に一回くらいは、寿司を堪能できるこういう健康で文化的な時間を設けたいし、そのために生きて働くのも、悪いことではないはずだ。そう言えば、注文はしなかったが、じくじく炙ったのどぐろの寿司がたいそう美味そうで、「先に言ってよ」と思わされた。次回こそ頼みたい。

そんなわけで、ぜひまた訪れたい、新橋の立ち食い寿司なんである。

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やきとん、東十条、埼玉屋 [食べ物系]

「やきとんの概念が変わりますよ」

そう何度ものたまう友人に誘われ、あるとき、東十条駅に降り立った。目指すは、やきとん屋の埼玉屋。15:30に店の前で待ち合わせとのことだが、調べてみると開店時間は16:00。少なくとも30分は待つことになる。もっとも、その友人からは、14:30には現着の旨連絡が来ており、自分よりも1時間も長く並んでくれているらしい。

ありがたいが、「概念が変わりますよ」という発言も含め、何やら仰々しい。仰々しいのは、当日だけではない。埼玉屋のルールについても、事前に何点か聞いていた。

・他店から飲んで来るのはNG
・アルコール、ドリンク類の注文はマスト
・メニューは原則やきとん9本からなるコースのみ
・サイドメニューもあるが、それは基本店員から促されたタイミングでのみ注文
・写真撮影NG

主なものは以上のとおり。ごちゃごちゃうるさいとは思ったものの、所詮自堕落な日常だし、まあたまにはそういう飲み食いも悪くなかろう。東十条駅北口をぶらぶらし、思いのほかの賑わいにいささか驚きつつ、ほぼ時間通りに店前につく。すでに10人程度の行列で、友人は二番目辺りに付けていた。入るときに一緒にということで、列の最後尾に並ぶ。

小雨をやり過ごしながら待つこと30分あまり、店の扉が開く。割と新しく清潔感ある店内。上下に平べったくしたようなコの字のカウンターが中心で、コの辺の辺りに炭火の焼き台が鎮座している。店の端にテーブル席がいくつか。カウンターは即満席だ。

僕らがホッピーとレモンサワー、他の客も思い思いの飲み物を注文すると、コースが始まる。まずは、クレソンと大根のサラダ。草をもしゃもしゃ食ってるうちに、いよいよ肉類が登場だ。

最初に牛串。生でも食えるとのことなので、生で頼む。タレにひたした肉を口に入れると、最初口の中がひんやりし、そして脂の旨味がまったりとろける。そうこうするうち、シロが焼き台に上がり、香ばしさが店内に立ち込める。焼きあがったシロはふうわり、それでいてじゅわっとしていてよい。

レバー串は、「甘いレバー」と言われるとおり、噛み締めるとじんわりした甘さとコク、そして確かなレバーの風味が活きている。バターをまぶして食うチレ串は、サクふわな食感と心地よい臓物の香りに、じくじくとしみたバターが得も言われぬアクセントとなっている。

串モノだけではなく、折に触れて出てくるサイドメニューたちも素晴らしい。レバー焼きは、串と異なり、オリーブオイルとバルサミコで味を調えられてより力強い風味を発散し、「甘いレバー」の新たな横顔を見せてくれる。煮込みは、ほろほろとした肉の旨味は言わずもがな、濃厚なシチューのような汁をバゲットに合わせると、これはもう、堪えられない。

洋風の味付けに絆されてか、いつしか、ホッピーやレモンサワーに加え、スパークリングワインも注文。酒と肉の愉悦にしばし浸る。最初は仰々しく感じた各種ルールもいつの間にか慣れ、大将の軽口や肉のアピールも学びとエンターテインメントとして入ってくる。これはこれで快適だ。

なるほど。

埼玉屋、諸々のルールなどから頑固おやじの保守的な店と思っていたが、あにはからんや、その料理は新しさと工夫が詰め込まれたものだった。

ふだん食べている焼き鳥とかやきとんも大好きだ。ただ、埼玉屋のように、良い肉を、良い臓物を、どうやったらもっと美味く食べられるかを追求し続ける、どこか求道的な姿勢の店があっても良い。やきとんの概念が変わったかは別として、肉料理にはまだまだ可能性があるのかもしれない、そんなことを思わせる埼玉屋体験であった。

ぜひまた訪れたい店なんである。

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煮魚礼賛 [食べ物系]

徒然なるままに、ふと、煮魚のことを考えた。

子供のころの定番おかずの一品が、赤魚の煮つけ。小骨もほとんどなく身離れのいい赤魚は子供にも食べやすく、甘じょっぱい味付けに、それなりに脂の乗った身は白飯によく合い、好みだった。夜中つまみ食いをしようと冷蔵庫の中の煮つけの残りを探り、煮汁が冷えて煮凝りになったものをすすったのもまた、楽しい思い出である。

カレイの煮つけもよい。特に、卵を抱えた雌を煮つけたものは、ホクホクした淡い旨味の身に、ホロホロとした卵、そしてまろりコクのあるエンガワが同時に味わえる逸品だ。多様な味が一気に楽しめるという意味では、真鯛の頭、すなわち兜煮が秀逸である。頭、頬、唇などそれぞれ微妙に異なる食感と風味を出しながら、真鯛の旨味のバックボーンの存在感。さらに、ふるふるした目玉周りの身は堪えられない。

冬時には、ブリ大根の美味さが際立つ。ブリのアラや頭からはギロついた脂が染み出し、それ自体が濃厚な旨味を放出していることに加え、その旨味をがっちり受け止め、ジューシーさと清々しさを演出する大根の底力には脱帽だ。

青魚なら、サバの味噌煮は王道であり、外せない。青魚特有の香りと芳醇な脂を持ったサバに対し、どっしりと構えた味噌。それぞれの力強い風味ががっぷり四つにぶつかり、素晴らしい一皿になる。同じ青魚でも、鰯の梅煮は、また趣が異なり良いものだ。脂の乗った鰯の旨味が、梅干しの酸味や香りと縺れ合い、濃厚ながらも繊細な味に仕上がったものを食らうのは純然たる快楽である。

変わったところでは、例えば、輪切りにしたマグロの尾の部分の煮つけは、がっしりした身の味に加え、尾の部分のゼラチン質の旨味が強く、たいそう好ましい。変わったところをさらに挙げれば、カスべ、すなわちエイの煮つけも佳品であり、軟骨のコリコリ感とプルプルとした身がたまらない。

ノドグロ、キンメダイ、メバルといった煮魚の常連たちは言わずもがなで、それぞれ美味いに決まっている。

師走を迎えたこの時期、湯気上がり香りを放つ煮魚に、燗酒、そして白飯を嗜みながら過ごす夜を妄想するのは、大げさに言えば、人間に許された自由の一つなのではないかとも思うのである。

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