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子瑜漠々~諸葛兄弟異聞~ [フィクション]

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秋風とともに入ってきた、弟の訃報。複数の情報筋を照合したところ、それは疑いえない事実であった。弟の死を知らせる文書類を机上に、私は、しばし目を瞑る。いつも思い出す、子供の頃、あの日の川。そして、弟の横顔。

その川に流れは無かった。青緑色をしていたはずの水は、ほとんど川下へ流れることもなく赤黒く染まり、池のような沼地のような水溜まりをなしている。水溜まりを堰き止めているのは、数え切れぬほどの死体だ。

老人、子供、男、女、兵、農民…ある者は頭を砕かれ、ある者は腹を裂かれ、ある者は首を切られ、ある者は手足を失い、とりどりの死体が川を堰き止めている。

その異様な水溜まりを尻目に、まだ子供だった私は、すぐ下の弟の手を取り、はぐれた両親や家族を探しに彷徨い歩いている。家族と合流しなければ、早晩、自分も弟も、川を堰き止めている死体たちの仲間に入るだろう。せめて、弟だけでも。聞き分けがよく、こんな状況でも泣き言一つ言わない弟。

どうにかして、この子を連れ帰らねば。

歩きつつ、濃厚な死者の臭いが混じる風に、ほんの少し、違うものが混じる。砂煙。風上を見ると馬に乗った人の集団。兵隊だ。身を隠そうと、弟の手を取り、少し先の草むらまで走ろうと試みる。だが、いくら手を引っ張っても弟の身体は動かない。

「亮?亮?」

砂埃から、少しずつ人の形が現れてくる。やはり、馬に乗った兵隊たち。見つかったらどんな目に合うかわからない。うっすらと旗印も見えてきた。だが弟の目は遠くの旗印を見据え、身体はまるで根っこでも生えたように動かない。

「亮、亮!」弟の身体を揺さぶる。そんな私の声や思いを知ってか知らずか、

「曹…操…」目を細めて旗印を読む弟。

その後幾十年にもわたり、宮廷や戦場で、英雄や豪傑や名士と呼ばれる多くの人々と渡り合ってきた私だが、このときの弟ほど、冷たく、そして暗く沈んだ怒りに満ち満ちた表情の人物を見たことが無い。そんな弟が急逝したとの報が、立て続けに私の下に舞い込んできたのである。

蜀漢帝国丞相、諸葛亮、字は孔明。私の弟の今の呼び名だ。だが今の私には、徐州のあの川のほとりが脳裏から離れない。

あの川を這う這うの体で離れ、弟と私含めた家族は、曹操軍による殺戮をどうにか逃れることができた。中原の戦乱から逃れるため、私は、母を連れて、孫策どのが勢力を築きつつあった江東に遊学しながら仕官の機を窺うことに決めた。弟たちは荊州の親類に託されることとなった。

華北では、曹操が袁紹を破って中華の覇権を握ろうとしつつあるころ、江東では、暗殺で非業の死を遂げた孫策どのの跡を、陛下、つまり孫権どのが継いだばかり。そんな孫権どのに、私は仕えることになった。

数年ほどの勤務を経て孫権どのの信頼を得つつあった私は、弟を江東に招こうと考えた。預けた荊州の親類はすでに亡く、幼いころから才知に恵まれた弟なら、孫権どのの役にも立つはずだ。母も喜ぶに違いない。しかし、手紙にこそ返事はあるものの、江東に来ることに関しては、色よい返事が無かった。弟が妻を娶ったことも、手紙で知った。

あるとき、孫権どのの命で、荊州へ使いすることが決まる。この機会に、弟に会ってみよう、そう思い手紙を出しておいた。

荊州についた私は、それとなく弟の消息を訪ねた。幸いなことに、弟の嫁は土地の名士、黄承彦の娘であり、そのおかげもあってか、弟の暮らしにそれほど不自由も無いことがわかって安心する。現地の名士たちの間にも出入りしている弟は、一部では、「伏龍」「臥龍」ともあだ名されているそうだ。

弟の家は、すぐに見つかる。何の変哲もない農夫の家。傍の畑で汗だくになって草取りをしている大柄の男、身体こそ大きくなったが、見間違いようが無い。弟だ。たまらず、声をかける。

「兄さん、そろそろ、おいでになる頃と思ってました」

そう返事をし、汗をぬぐう弟の、浅黒い、莞爾とした顔からは、戦の続く中原や江東の民には見られぬ健やかさがあった。さっそく、弟の家に招かれる。その妻にも紹介してもらった。しばし、二人で差し向かいで話す。子供の頃の話、お互いの、荊州や江東での話。古今の人物の話。話題は尽きない。

自然、今の人物の話になる。弟は、どこから情報を仕入れているのか、荊州だけでなく、中原や益州、西涼の人物にもそれなりの関心と知見を持っているようだ。曹操はもちろん、すでに亡き袁紹、劉表、劉璋、馬騰等々。その意見は、参考になることも少なくない。私がそのことを褒めると、

「いや、中原から逃れてきた人々が、それとなく教えてくれるだけです」

と、かぶりを振る。ますます、孫権どのの下で一緒に働いてみたくなる。

会話の中でそれとなく、孫権どのの話を織り交ぜてみることにする。若くして孫策どのの跡を継ぎ、群臣たちの心を掴んだその立ち居振る舞い、張昭どのや周瑜どのをはじめとする群臣たちの優秀さ、その若さと気力。もちろん、褒めるだけではいけない。その稚気や幼さなど、直していただくべきところも触れる。弟の顔がふっと綻ぶ。私も釣られて微笑む。

今だ。

孫権どのへの仕官を持ちかける。弟は一瞬目を見開き、そして瞑った。ずいぶんと長く感じた沈黙だが、ほんの数刻だったのかもしれない。次に目を開いたとき、弟は併せて口も開く。

「孫権どのは、確かに、一世の英雄でしょう。しかし、孫権どのには」

能弁だった弟が、まるで言葉を探すかのように口ごもる。

「孫権どのには」

そして、こう絞り出した。

「思いが、足りぬのです」

弟の顔には、幼いころ徐州のあの川のほとりで見たあのときの表情が刻まれていた。私は、仕官の説得を諦めた。ただ、弟の心の芯に触れた気がして、説得の失敗も、どこか喜ばしいような、そんな気持ちを抑えきれなかった。その日は夜が明けるまで飲んで、話して、笑い合い、二人してしたたかに酔ったのを、今なお覚えている。

それから、外交の使者として弟と意見を交換することこそ何度かあったが、二人きりで腹を割って話すのは、あのときが最後となった。

数年経た劉表の死後、そこに寄寓していた左将軍劉備の招聘を受け入れ、弟は、その軍師として活躍を見せる。劉備が弟をどのように説得したのかは詳しくはわからない。ただ、歴戦の豪傑である古参の武将、関羽や張飛をも上回る寵遇が江東の私の耳にも伝わるほどだった。魯粛どのの手引きで同盟の使者として来訪した弟を引見した孫権どのからは、弟の懐柔を命ぜられたが、私は不可能としてお断りした。

そして、赤壁の戦、荊州争奪、劉備の蜀獲り、関羽征伐、劉備の即位、宜都の役、劉備の死。

孫権どのに無く、劉備には在った思い。おそらくはその思いのために、丞相としての弟は、曹魏への北伐に邁進する。間者から折々に知らされるその緻密にして大胆な作戦は、呉の大将軍を拝命した私を唸らせるのに十分だった。しかし、北伐は志半ばで潰えた。

もちろん、蜀と魏の国力差は歴然としていており、試みそのものが無茶だったとも言える。それに加え、語弊を恐れずに言えば、蜀漢には、弟ただ一人しかいなかったこともあるだろう。

それが、蜀漢の人材不足にあったのか、弟の人材育成の不備だったのか、もしくはその両方だったのかつまびらかではない。だが、政務の上では丞相の顧雍どの。軍事においては上大将軍の陸遜どのと、憚りながら大将軍たる私をはじめ、戦線を任せられる将軍が何人かいる我が孫呉と比べれば、弟の双肩にかかる負担が大きかったのは間違いない。

弟も、確か五十歳は超えていたはずだ。六十歳を超えた私よりも若いが、世の常として、早すぎるとは言えない。徐州のあの川のほとりでの思いとともに、弟は、燃え尽きたのだろうか。

弟亡き蜀漢がどうなるのか、予断は許さない。しかし、弟の残した遺徳は、まだしばらく神通力を保つことだろう。我が呉として、軽挙妄動する必要は無い。

気が付くと、家の者が灯火をつけてくれており、夜半を回っていた。弟、いや、諸葛亮死後における蜀への対処方針案につき、孫権どの、いや陛下に奏上する一通り文書の草稿を書き終えると、外の空気を吸いたくなった。秋風に身が震える。弟が息を引き取った北方、五丈原は、さらに寒かったことだろう。

夜空は晴れ、瞬いているはずの星々は、どこかしらおぼろげに霞んでいる。目尻から頬に、涙が伝った。涙を拭い、少しだけはっきりとした星空に、赤黒く輝く、ひときわ大きな星が見えた。ほんの数刻揺らめくやいなや、その星は、軌跡を描いて西方に墜ちていった。

Zhuge_Jin_Qing_illustration.jpg


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