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ささやかな愛着、煮こごり [食べ物系]

たまに、煮こごりが食いたくなるんである。

子どものころ、赤魚の煮つけがよく晩飯に出た。
夜遅く、腹が減って口さみしくなる。

すると寝床を這い出し、こっそりと冷蔵庫を開け、晩飯の残りの赤魚の皿、
そのふちにたまった黒い煮こごりを指ですくって舐める。

ふるふるした食感。

口の中がひんやりし、赤魚の脂とコク、そして甘じょっぱさがじんわりくる。
赤魚自体を食ってしまうとつまみ食いがバレるので、あくまで煮こごり部分のみ。
そんな思い出。

三つ子の魂百までではないが、大人になっても、やはり煮こごりは好きだ。

カスベやサメの煮つけにくっついている煮こごりもよいし、
あらかじめ長方形に切ってある、フグかサメか何かの皮で作ったヤツも捨てがたい。

渋谷の『鳥竹』で頼む鶏の煮こごりも好物である。

煮こごりはフランス料理だとアスピックと言うらしく、そういえば、
新宿は『ベルク』で食らうポークアスピック、つまりあれは豚肉の煮こごりか。
これも美味いのである。

なかなか、煮こごりだけがスーパーとかで売ってることはなく、
居酒屋とかでも、常備しているところはあまり見ない。

おかしいなあ。もっと世に煮こごりが普及してもよいのに。

そう心の中で思いつつ、かといって、煮こごりのために旗を振る程でもない、
そんな中途半端な愛着を、煮こごりには抱いてしまうのである。

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偏愛、『ウィザードリィⅠ~狂王の試練場~』 [その他]

『ウィザードリィⅠ~狂王の試練場~』(ファミコン版)はかなり好き。

3Dダンジョンを舞台にした剣と魔法物RPGの傑作。海外からの移植ゲーム。

魔術師ワードナに盗まれたアミュレット(護符)を、狂王トレボーの命により奪還しにゆく、という単純なストーリー。地下10階までの迷宮の奥深くに潜むワードナを打倒するために、6人パーティを組んで迷宮に潜入する。

迷宮内には暗闇やトリックが張り巡らされ、敵モンスターを倒すと出現する宝箱には、ときにはパーティを瞬殺するようなおそるべき罠が仕掛けられている。

一応、ワードナを倒してアミュレットを持ち帰ればエンディングではあるのだが、そこからも、欲しいアイテムを探したり、キャラクターのレベルを上げたりのためにモンスターを倒しつつ、ひたすら迷宮と地上を出たり入ったりするゲーム。

当時小学生だった僕は、ゲーム自体のシンプルさとそこから立ち上る想像力の豊穣さに、一挙に魅せられてしまった。そしてその気持ちは、30年以上経った今でも、変わることなく息づいている。

ヨーロッパ風の剣と魔法の世界にも関わらず、ニンジャやサムライが登場。至高のアイテムである手裏剣や村正は、ワードナを倒した後でも根気よく迷宮探索を繰り返さなければ見つからないが、その苦労がよい。

戦闘や罠や毒などで、パーティーのメンバーはあっけなく死んでしまう。生き返らせようとしても、かなりの確率で灰になり、そしてロストとして永久に失われてしまうのは、とてもとても儚く、胸がかきむしられるよう。

通常のプレイ画面は、ひたすらダンジョンの壁面と、プレイヤーのパーティのステータスに関する文字のみ。しかも、設定でダンジョンの壁面を線画にすれば、本当に真っ暗な背景と白い直線と白い文字しかない。貴重なアイテムも、「しゅりけん」「むらまさ」という白い文字に過ぎない。あまりにもストイックで、想像力をこねくり回される。

そんな想像力の無限の混沌の中に屹立として立つ、末弥純描くモンスターの流麗なイラストと、羽田健太郎の荘重にして軽妙な音楽。ファミコン版、日本版のアレンジらしいが、これが実に素晴らしい。

もちろん、1だけでなく2も3もそれなりに楽しいのだが、心に響いたファーストインプレッションは、やはり1に敵いはしない。

ああいう、どこか未知の世界に入っていくような、どこかドキドキした気持ちは、ゲームの出来のよさと、自分の幼さとそれゆえの好奇心と、日本人向けのアレンジの、全てが合理的に混和された、幸せな経験だったと言えるだろう。そのようなドキドキが、その後の人生で滅多にやってくるものではないと、子供の僕は知る由もなかったが。

でも、そのような経験があったことを、ささやかながら大事にして生きていきたい。もはや冒険者でも何でもない中年男性に過ぎない僕だが、いつだって、狂王の試練場に行く心づもりはできているのである。

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安倍政権のある消極的支持者の繰り言 [政治]

2019年11月時点で、自分は、安倍政権の消極的支持者である。

消極的支持だし、元々それほど思想や何やらも堅固な方ではないミーハー番長なので、安倍政権よりマシな選択肢があれば、自民党内であれ、野党中心の政権であれ、すぐにそちらを支持することは間違いない。しかし、なかなかそうはいかないようだ。

その原因は、物事を実現するための合理性を、野党に見出すことができないから。もっと率直に言えば、政権を取る気がないとしか考えられないからだ。

立憲民主党を中心とする野党は、選挙に勝って政権を交代するというKGIも、そこに至るKPIも、全く意識していないように見える。選挙で勝つには、政権と与党の支持率を下げて、野党の政党支持率を上げなければいけない。なので、普通に考えれば政党支持率がKPIになるだろう。しかし、少なくとも世論調査上、支持率にはここ何年も大きな動きが無い。

7年近くもKPIに影響を与えられないなら、普通、PDCA回して試行錯誤してやり方を変えなければならないはずだ。政権批判層やコア支持層の声の大きさに惑わされ、ないしは甘やかされて取りつかれ、旧態依然のスキャンダル追及に精を出し、頑張った感を出すも、結局与党を批判した同じ理由によるブーメランで自党議員も世間から批判され、有耶無耶になって終わってしまう。その繰り返し。

百歩譲って、それでも政権や与党の支持率を下げ、野党の支持率を上げられたならそれでもいい。しかし、野党によるスキャンダル追及が支持率との関係で大きな効果をもたらしていない。にも関わらず、いわゆるモリカケしかり、桜を見る会しかり、相も変わらずスキャンダルの追及に全力を挙げているように見える。いったい何を目的にしているのか、目的とスキャンダル追及がどういう関係にあるのか、まるで見えてこない。

正直、不気味ですらある。

たぶん、与党支持層であっても、自分を含め政権側の説明に納得している人は少ないと思う。しかし、民事刑事での違法行為があればその範囲で責任を負えばいいし、それで足りると考えているのではないか。

しかもスキャンダルが違法だとして、その判断プロセスは結局司法の問題だし、個人的には、それを議会の場でやる意味をそれほど感じない。どんなに政権が悪事を働いていようとそれは司法で正せばいいんであって、司法上の権限も手法も能力も持たない野党議員がどれだけ検察官面をしたところで、いったいどのような意味があるか疑問である。

要するに、最終目的も中間目標もそこに至る手段もちぐはぐで、かつそれを修正できず、それがゆえに選挙による政権奪取という最終目的の実現に近づけない現在の野党に対し、個人的には、仕事ができないという偏見を持っている。仮に彼らが素晴らしい政策を掲げて今後政権を担うとして、それをどう実現するのか全く想像できないのである。

対する安倍政権。長期政権のゆるみか、スキャンダルも多いし説明も齟齬だらけだし、正直不格好だと思う。しかも、最大課題であるはずのデフレ脱却には次々と逆行する政策を打ち、経済政策はいわゆる経済団体の受け売り。公文書や記録の廃棄は、仮に違法ではないにせよ決して褒められないし、批判されるのは当然だ。

一方で、特定秘密保護法にせよ、安全保障法制にせよ、いわゆる共謀罪関連にせよ、消費増税にせよ、内容の賛否はあれど、政権が必要だと考えることは、一時的に支持率を落としてでも実現する粘り強さがある。どうすれば法律ができ、組織が動くのかを押さえている。目的も手段も全て齟齬で、あまつさえその軌道修正もできず、そのためにどんなにまともそうなことを言ってもその実現が想像だにできない野党よりも、そこは手堅いと思う。

とすると、安倍政権を批判しつつも政権奪取のための行動を取らず、やる気すら疑われる野党を支持して、政権交代という咲かない花に水をやるより、自分の意見とは必ずしも一致しないながら、曲がりなりにも実現力がある安倍政権に影響力を与え、政策の実現なり撤回なりを迫った方がいいのではないかと思ってしまうのである。

もちろん、各人いろいろな意見があるだろうが、おそらく、僕のような消極的な政権支持層って大なり小なりこんな気持ちでいるのではなかろうか。頼むから、与党にしろ野党にしろ、消去法ではなく、もう少しきちんと支持できる姿を僕ら国民に見せてほしいものである。

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宗教と哲学 [読書]

トマス・アクィナスの『君主の統治について』を読む。

トマスは、言わずと知れた中世スコラ哲学の大成者。

高校時代の世界史の記憶によれば、トマス・アクィナスの業績は、
キリスト教神学をアリストテレス哲学によって再構築したもの、
だったような気がする。

とはいえ、これ、

アリストテレスの『政治学』まんまなんですけど。

結論はともかく、論の進め方や、概念の使い方。

例えば、

「君主制→僭主制」、「貴族制→寡頭制」、「民主制→衆愚制」

の分類とかね。

もっとも、ギリシア哲学にない唯一神の統治のアナロジーで、
強引に、君主制が最高の統治形態と位置づけられている辺り、
なかなかに面白い。

アリストテレスが聞いたら、どういう顔をするだろう。

それにしても、疑うことから生まれたギリシアの哲学と、
信じることを最重要視するキリスト教神学が、
何とも言えぬ融合をしている。

キリスト教的に見れば、ギリシアは明らかに異教であろう。

キリストの世界、中世の思想的バックボーンが、
非キリスト教の概念にあるという矛盾。

中世最大の神学者トマスは、どう整理しているのだろうと思う。
ああ、『神学大全』、読んでみたいけどちょっと時間ないし退屈かなあ。

などととりとめもなく。

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桂花雑感 [食べ物系]

たまには桂花ラーメンも食らうのである。

濃厚な角煮がのった太肉麺もよいが、普通のでも十分いける。塩味ベースの白濁した汁に、にんにくベースのマー油の香り、麺はもそっとした感じの存在感で、生キャベツと茎ワカメのじゃきっとした食感が楽しい。

ただ、天下一品の喉に絡まるどろりとした汁や、ニンニクヤサイマシマシアブラカラメのラーメン二郎、あふれる焼豚坂内や、北極の中本、30秒で出る博多天神などと比較すると、やはり、個性として一枚落ちる。

だがそれもいい。

何というか、汁とマー油と麺とその他具材のバランスがちょうどよい気がする。あくまで気がする、だけなのだが、たまに食べたくなる。先述のとおり太肉麺が王道だが、パイコー麺やチャーシュー麺もよい。新宿だけかもしれないが、朝だけ食えるふぁんてん丼も、ジャンクさが光る。

しかと心に刻まれたわけではないけれど、そこはかとなく忘れられない、長続きするには、そんな特徴もアリなのかもしれない。ラーメンだけでなく、嗜好品や、人間関係全般についても。

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