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ギスギスさの一要因に関する仮説 [その他]

常に誰かが誰かを批判しあっているようなギスギスしさ。

そんな現代社会を窮屈に感じさせる一要因として、インターネットを中心に人々それぞれの自我が拡散したことによって、自我同士が触れ合ってしまう機会が増えたことがあるのではないか。要は、物理的にはともかく、常時満員電車にいるような精神状況に陥っているからではないかという仮説を漠然と持っている。

気分を害した事柄について、かつて「そんなの自分には関係ないね」で済まされたのが、現代ではそれが拡散した自我に触れる事柄であるゆえに「自分が傷ついた、権利が害された」と感じ過剰反応を起こしてしまう。また、その反応の連鎖が集団化して個々の自我の融解と集合的な攻撃性を帯びることになる。

その攻撃性の主観的な性質は、あくまで「自分が傷ついた、権利が侵害された」ことに対する正当防衛のようなものであり、かつ、しばしば集団であり匿名性も備えていることから、個々人の責任意識がはなはだ希薄となりがちだ。こうして、個人の攻撃性は正当化意識と集団性と匿名性の中に完全に顕現する。

いつ自分がその餌食になるかを思うと、この攻撃性を局外から見るのは、正直いたたまれない。もし自分が渦中にあって逃れるには、自分も「傷ついた、権利が侵害された」に回るしかなく選択肢はほぼ無い。こうして、攻撃性と選択肢が奪われる不愉快への恐れと委縮が、現代の窮屈さの一つの在り方となるのではないか。

もしこの仮説に幾分かの理があるのならば、窮屈さから逃れるには、自分の自我が拡散している事実をまず認め、自我を少しずつ収縮させていくとともに、自分にとって居心地のいい自我の範囲というものを手探りしていくことしかあるまい。

それはとどのつまり、個人の領域、すなわちプライヴァシーの現代的な再認識の過程といえるのかもしれない。そう、ギスギスの背景は、プライヴァシー概念とその活用の混乱にあるのではなかろうか。

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