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新宿御苑のある昼下がり [新宿]

先日オフの午後、一人、新宿御苑で過ごす。

昼どきの伊勢丹で酒の四合瓶と漬物を買いふらりと散歩。
水辺の草原にあぐらをかけば、カラスが一羽、ちょいちょいと
歩いている。

通常の威勢の良い鳴き声ではなく、どこか、
咽喉に何か詰まったような声。

よくわからんが、とりあえず、漬物をちぎって放る。
蕪、大根、胡瓜。1メートルくらい先に投げると、
そのたびに、カラスは嘴でそれを拾いに行く。

ちょっちょっとつまむが、すぐに吐き出す。
やはり漬物はカラスの口に合わんのか。

酒と併せても、漬物、うまいのに。

正面を見ると、水辺には鴨の艦隊が陣形を作り哨戒中。

持参した本は『対局する言葉―羽生+ジョイス』 (河出文庫) 。
羽生善治と柳瀬尚紀の対談。

風と水辺と草の匂いに酔い、あまり内容を理解しないまま
ページをくくると、柳瀬氏による私小説に傾斜した日本の
文学批判が面白い。

そりゃ、フィネガンズ・ウェイクと比べるのは酷だ。

思考がいったんルノアールに飛ぶ。

ルノワールは、ラファエルロの聖母子像を見て、
「何と見事な絵具の塊だろう」と言ったそうだ。
ここまでくれば抽象絵画までは一息だ。

同じ感動を与え、絵の具の塊ありさえすれば、
ルノワールの裸婦像でも、モンドリアンの
幾何学模様でも構わない。

つまり紙に印字された文字列が言語として把握され、
それが人の心を動かすものであれば、文学なのだろう。
そのことを自覚的すると、文体と内容の二元論が希薄化する。

口語散文は言語の自由度を高めたが、そのために、
形式が内容に劣後するという錯覚を生んだのではないか。

井上ひさしが喝破したように、樋口一葉の魅力は、
滅びゆく文語文と新しい口語散文の狭間に生まれた
麗しき徒花なのかもしれない。

このようなことを自意識的にやってのけたのが、
筒井康隆なんだろう。

日本語の小説という形式に関し、徹底的に懐疑的な
作品群はしかし、物語の洪水に埋もれてしまったと 思う。

そう考えると、エピソードの一つ一つは分かっても
全体のつながりがよく分からないまま魅力的な違和感
を残す村上春樹は、やはり海外の作家なのかもしれない。

ちなみに、将棋はよく分からない。

酒もあらかたなくなり、広い草原に出て昼寝に落ちる。
子どもらの声が随分と遠い。

いつの間にか日が傾き肌寒くなった閉園間近、
一合弱飲み残した酒を隠し、御苑を後にしましたとさ。

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