SSブログ

平成から令和への個人的な願い~緩やかな統合へ~ [その他]

平成が終わった。

政治や経済、文化など、多くの人がそれぞれの視点で平成を振り返るだろう。多くの優れた論考が生まれるに違いない。そんな中、屋上屋を架すようだが、平成への思いを個人的に振り返り、令和へのささやかな願いをしたためてみたいと思う。

非常に単純化すれば、平成は、個人主義の名の下に、個々の自我が大いに拡散した時代だったと思う。あるいは、国家や会社や革命やイデオロギーといった大きな物語が力を失い、それらから解放された時代であると言ってもよかろう。

個々人は、状況の許す限り個人の自由を最大限謳歌しようとしたし、それを抑制するのではなく、尊重するのが当然と思われた。人と人との繋がりも、個人の感情がベースとなっていった。

それは、浅田彰の『逃走論』におけるスキゾ・キッズたちの世界と言えるかもしれない。

良いことは、危機に際した個人の共感の自然発生だろう。阪神大震災や東日本大震災、その他災害や悲惨な事件事故に対する人々の共感や被災者・被害者への支援行動は、インターネットやSNSを介したもので、マスメディアだけではない自然発生的なものだったし、そのような、社会の強靭さは記憶に新しい。

その裏返しとして、共感できないことや共感が異なるに対する人々の間の分断が甚だしいことが明らかになった。例えば政治的な意見や、放射性物質の被害で、同じ事実、政策でも自分の感情や立場によって、見え方や評価が異なり、意見が違う相互の間では、あたかも対話が不可能であるかのような言説が飛び交った。

そして、令和がはじまる。

もちろん、それがどんな時代になるかはわからない。ただ、自分含め 人々が幸せを感じる時代であってほしいとは切に願う。そのために必要となるのは、どんな時代の空気だろうか。

おそらくだが、令和には国民全体を覆うような大きな物語の復権はもはや無いだろうし、そのことに対する昭和のノスタルジーの声も、時を経るごとに小さくなるだろう。平成における個人の自由は悪くなかったし、様々な良いものも産んだ。

ただ、人々の生活はますます細分化、専門分化が進んでいる。その中で個人の自由を享受し、そして自由を行使して生きるには、目に触れることのない多くの人々の仕事とその複雑なネットワークの構造が必要不可欠だ。

例えば、僕らが24時間営業のコンビニで食う弁当に、一次産業から始めて、どれだけ多くの人の手が加わっているか。田んぼや畑、牧場、漁港、流通、加工、調理、盛り付けといった食材だけでなく、容器や、販売等、それぞれに実に多くの人出を経ていることを想像するだけでも、十分だろう。

それが損なわれるとするならば、個人の自我意識や人々の思考の分断による、他人およびネットワークへの敬意の喪失であると思う。

平成で強化された個人の自我、個人の自由を支えるものは、個人を越えた人々のネットワークであり、それを可能にしたソフト、ハードのインフラである。一方で、個人の自我の強調は、しばしば自尊意識に陥り、そのようなネットワークへの敬意、ないしはその前段階にある他者への敬意を損ねがちである。また、人々の思考の分断も、その傾向に拍車をかける。

ネットワークへの敬意の喪失はその弱体化に繋がり、ひいては個々人の生活水準を下げ、現在享受している個人の自我、自由が損なわれる。それを防ぐには、個人の自我が、必ずしも意見が合わないであろう他人を一応は尊重し、そして自分の外にあるネットワークへの敬意を保つことが必要になるはずだ。もちろんそれらは、個人の自由を圧殺するものであってはならない。

こうして、既存の生活水準や個人の自由を維持発展させるには、個人の自我や自由の強調だけではない、統合への意識が求められることになる。もちろん、この統合とは、国家や社会やイデオロギーといった他所から与えられた大きな物語に組み込まれることではない。個々人ないしはその隣人からネットワークへと段階的に派生していくものとなるべきだ。

あえて言うなら、緩やかな統合とでも言うべきか。

何も、全員がいついかなる場面でお手々つないで仲よくすべきという話ではない。重要なのは、個人の自我に社会性を持たせることであり、個人のプライヴァシーの領域とそれぞれでの思考や表現にグラデーションを持たせることではないかと思う。

例えば、どんなに差別的、侮蔑的な意見であっても、それが個人の内心にとどまっていたり、もしくは自分の部屋の中など、個人の領域内でのみ表現されるのであれば、それは全面的に尊重されなければならない。一方、公共の場で他者を傷つけるような表現をすれば、場合によっては侮辱罪や名誉毀損罪など、刑事責任をすら負いかねない。

そして、SNSをはじめインターネット空間や、数人での社交場の集まりなどは、完全な個人の領域と完全な公共の場所との間に位置しているはずで、それぞれに適した表現の程度についてグラデーションをつけるべきだと思うのである。すなわち、公共に近い領域では、相手や不特定の他人に配慮した表現が求められるだろうし、個人の領域ではその制限が外れる。そうすることで、分断を誘発しかねない個々人の自我と、社会のネットワークの維持を両立に導かれるのではないかと漠然と思うのである。

令和が始まった今、そのようなことをだらだらと考えるスタート地点に立ったのだと言えよう。

社会が一直線に成長、成熟し、人々が時を経るごとに幸せになっていくと考えるほど、楽観的ではない。しかし、それぞれの時代は、それぞれかけがえのない価値を築いたと思う。例えば、昭和は国民の力を結集し、生活を大いに豊かにした。平成は、大きな物語から個々人を解放し、自我と自由を謳歌させてくれた。

令和が、緩やかな統合の時代となり、新たなかけがえのない価値をもって振返られることを、一国民として願う次第なんである。

nice!(0)  コメント(0)