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妄想、100均のパンツから [生活]

100円ショップで買った下着、特にパンツの脆さときたら、だ。

2~3回洗濯したら、縫い目がほつれ、生地はスケスケ。
アラフォー男のスケスケおパンツほどにどうでもいいものは、
この世でそう見当たらない。

靴下は、100均で買ってもわりと耐久力があるのだが、
パンツはどうもだめですわい。

デフレの原因として、100均ショップなど激安ショップの氾濫などが
まことしやかに指摘されるが、マクロ経済学の本をきちんと読むと、
どうも違うらしい。

財物一般の価格の継続的な下落であるデフレは、
マクロで見ると貨幣現象であるようだ。

要は、モノよりおカネを大事だと思っている人が、
社会の大勢を占めているということ。

個々の家計で見れば、何かあったときのためにおカネを
節約しなければというマインドは、至極まっとうだ。

しかし社会全体がそうなると、消費全体が落ち込み、物が売れず、
モノの価格が下がり、利益が減り、給料が下がり、また消費が落込み・・・
という絵に描いたデフレスパイラルに陥る。

合成の誤謬っていうやつだね。

さて日本では、関東大震災後、昭和恐慌、金解禁、世界恐慌の流れで、
深刻極まりないデフレを経験している。

企業の淘汰を通じ国内企業の競争力を高めようと、敢えて、
デフレ政策に踏み込んだ民政党政権(浜口雄幸首相、井上準之助大蔵大臣)は、
少なくとも国民の生活からは、失敗だったといえる。

デフレからの脱却は、その後の大蔵大臣、高橋是清による
大規模な財政出動に待たなければならない。

もっとも、民意(そう。民意)を背景とした軍部の圧力で、
財政出動の多くが軍事予算に吸収され、抵抗した高橋是清らは、
2.26事件に斃れた。後は統制経済の始まりだ。

そうなると、もう民意とは何か、よく分からなくなる。

などと、100均のスケスケパンツから空想したよしなしごとなんである。

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『暗鬼夜行』感想~エンタメの向こう側へ~ [読書]

『暗鬼夜行』(月村了衛)読了。

圧倒的に読ませる、そして考えさせられる読書体験だった。

中学校のSNSに投じられた学校代表の「読書感想文」盗作疑惑。国語教師汐野は、その解決に奔走する。 中学生の言動や、それぞれの思惑を抱えた保護者、周囲の教師たちその他あらゆる人間に翻弄され、打つ手打つ手が結果的に全て後手に回り公私ともにジリジリと追い詰められ削られていく汐野。その姿には読む方もひたすらジリジリさせられる。

また国語の授業の教科書の中で、そして要所要所で繰り返し触れられ、基調低音として不気味な存在感を見せつける中島敦の『山月記』。

ラスト50ページあたりから、たたみかける乱撃のように明かされていく謎。そして勝利と呼ぶには余りにも苦い汐野の逆転劇。結局、汐野は教師を辞め、この事件を小説にしたためようと苦吟するところで物語は終わる。

そこには、純真無垢な中学生もいなければ、教育に情熱を捧げる教師もおらず、地域や学校を慮る保護者もいなければ、なんなら高潔な政治家もいない。汐野も含め、年齢性別立場を問わない人間の俗物さ醜悪さ、すなわち「暗鬼」をこれでもかと見せつけられた上で、自尊心も仕事も恋人も周囲の信用も、あらゆるものを失った汐野が、

「書くしかない。書くしかないんだ」

と、自分の人生を自分の意志で決断できたこと。それが最後の最後での微かな救いなのかもしれない。

謎解きの要素をふんだんに盛り込んだミステリであり、教育の現状をカリカチュアライズした社会小説であり、『山月記』への尽きぬオマージュであり、作中の事件をさらに書こうとする作家の姿を映したメタフィクションですらあるのではないかと思う。

確かにエンターテインメントではある。しかしこれを、エンターテインメントとだけ言ってしまっては、なんだかその意義を捉えきれないのではとも懸念する。これはもう、『暗鬼夜行』という唯一無二の作品としか、言いようがないのではないか。

ともあれ、月村了衛さん、執筆協力のご縁もありデビュー作から拝読させていただいているが、特にここ数作、題材といい物語と人物像といい、毎度毎度新たな作品世界を開拓し構築していく姿が本当に凄まじい。

さて、かつてジョアン・ミロはピカソを評し、

「明日には何を描くかわからないという人々の期待が、彼を攻撃から守るのです。彼の巧みな技術は、いわば商標なんです」

と述べたという。描くを書くに代えれば、ある意味もう月村さんなのではないか。

エンターテインメントでありつつそれを超えようと胎動しているかのような『暗鬼夜行』を読んでしまったからには、次回作以降がどうなろうと、驚きはしない。いや、驚きはするのだろう。しかし、まだ見ぬその作品が自分の心を様々な角度で喜ばせてくれることを、もはや疑いはしないのである。

≪暗鬼夜行:e-honリンク≫
https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000034060612&Action_id=121&Sza_id=A0
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思い出、ミシュラン二つ星のレストラン [食べ物系]

新型コロナで鬱々としてる時期だし、昔の思い出をサルベージする。

6~7年前のことだろうか。

当時仕事上でおつきあいのあったY氏(当時、某IT企業法務部長)に、都内にあるミシュラン二つ星シェフの某フレンチレストランで、ごちそうになってしまったのである。

50代のY氏と30代のそれがしのメンズ二人。No女子。

何かいろいろ料理とかワインが出て、お互い四方山話をしつつ、とても楽しい時間だった。それにしても、食べ物に関し、人間の欲望は深いもんだと改めて痛感してしまう。

例えば、アミューズの次に出た牡蠣。

岩海苔のムースの上に生牡蠣をのせ、柑橘系のジュレをかけ、岩海苔を散らす。牡蠣と言えば、採れたての生牡蠣にポン酢かレモンが最高だと思っていた。

しかし出て来た料理は、牡蠣とポン酢の美味さをそのままに、らくらくとその上を行く味覚の記憶を振りかけてきた。

そして例えば、鮎。

鮎など、一匹丸々塩焼きにするのがベストだと思っていた。それがだ。身はムニエルで、腹には鮎の臓物で作ったソースをつめ、頭と骨は揚げられ、添え物になっている。

確かに、身の美味さと骨や頭の美味さを発揮する火の通し方は違うはずだが、鮎の美味さにかまけて、意識に上らなかった。やられた。

他にも色々あるのだが、割愛。

なるほど、慣れ親しんでるはずのシンプルにして至高なる日本の大いなる調理法は、素材の良さに溺れ、実は大いなる倦怠の中にあるのかもしれん。むむむ。

一皿一皿に、「美味いものを、もっと美味いもの」をという、求道的なものを感じるのである。詳細省くが、もちろん、ワインとチーズも大変すばらしかった。といっても、堅苦しくはなく、しっかりくつろげる空間なのは不思議。酒の力か何なのか。

7月に生まれた子供の写真をにこやかに紹介しながら、

「ここは、ウチの妻も気に入ってる店でね。キャバ嬢なら、この数ランク下の店でも楽しんでくれると思う。でも、今日は坂本さんをつれてきたかったんだよ。わかると思ってさ!」

などとのたまうY氏。心憎い。

「私は勉強頑張ったから、今更子供が勉強できないとか、かんがえられない~」

などと、子供の教育などについて語っている隣のテーブルの女性たち(といってもそれがしくらいだろうな)の会話は、いささか興ざめだがまあご愛嬌。

美味さと、酔いと、しびれと、そこはかとない敗北感。

今度はY氏を接待したおしたいものだ、などと感じたある夜の一コマ。とはいえ、数年たった今でも、Y氏をもてなせるような身分には一切なっておらず、忸怩たるものを抑えきれない今日この頃なんであった。


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知識人の滅亡、あるいは一億総素人 [雑論]

何らかの専門知識のバックグラウンドを持ちつつ、その知識の広がりと思考から、世の中の様々な問題について傾聴に値する意見を発信することで、人々を啓蒙し、その判断や意思決定をサポートする。

そんないわゆる知識人は、もはや滅んだのではなかろうか。

以前からうっすら思っていたが、新型コロナウイルスを巡る状況で、なんとはなしに確信に変わった。

その背景は大きく二つあると思う。

一つは、発信で要求されるものが知識や思考ではなくなってしまったこと。

現状メディアでは、知名度、容姿、会話における当意即妙の反射神経、空気を読む力、媒体の方針と一致する政治的立場など、発信において、蓄積されてきた知識やそれに基づく思考以外のものが優先されているように見えてならない。

専門的な問題に対する、芸能人や著名人によるその分野の最低限の基礎知識を無視した「素人の素朴な疑問」や、やはり芸能人や著名人による「バッサリ切り捨てた」などの表現が大きく扱われる事態が、その好例と言えるのではないか。

もう一つは知識や技能の際限ない細分化・専門分化である。

医師一つとっても、小児科、外科、内科等異なる。感染症の専門家と言っても、研究者もいれば臨床医もいるし、政治や行政と関係の深い公衆衛生分野も、感染症の専門医とは、厳密に言えば異なるだろう。

例えば新型コロナウイルス対応でも、感染症の研究者とされる人が、防疫の具体的な場面で法制度に基づいて人をどう動かすかなどについて、必ずしも豊富な知見をもっているわけではないらしいことがわかった。

専門知識は日進月歩で進歩し、それにつれて細分化してくることは間違いない。この傾向を止めることができない以上、ある分野の専門知識の最先端にいるということが隣接分野への専門知識を保証しない可能性は、今後ますます高まってくるだろう。

このような現状において、僕らがメディアから意思決定に資する視点や情報を得ることは、かなり困難であると言える。なぜならばメディアで語る人の多くが素人であり、なんなら自分らとそう変わりは無い可能性があるからである。

その意味では、一億総素人時代と言っても過言では無かろう。

意思決定や判断のために、知識や情報は必要だ。とはいえ、日々の仕事や生活の中、素養の無い分野の専門知識を追って論文を定期的に読むような時間があるわけではない。自分ができる経験にも限度がある。

僕らは自分の意思決定に資する知識や情報を得るために何をすべきか。

一つは、好きな分野についてだけでも、最先端とは言えなくても、ほほ揺らがないであろう基礎知識を身につけておくことだろう。学部レベルの教科書や、一般向けの新書、啓蒙書などを広く読むことが大事だと思う。そうすれば、少なくとも、当該分野で絶対にありえないことの判別はつきやすくなる。

もう一つは、日々目にする情報や専門家とされる人々の発言、官公庁のリリースなどを比較して、各分野である程度信用できる専門家を自分で見つけていくことだろう。新書や啓蒙書の著者などから探していくと、とっつきやすいのではなかろうか。

さらに言えば、自分の得ている知識や情報に限界があることを常に意識しておくことや、知識や情報のアップデートとそれによる意見や判断の変更を恐れないということも大事なんだろう。

さて、このご時世、確かに、知識人は滅亡したと思う。

しかし逆に言えば、知識人と僕のような一般人の垣根がそれほど変わらなくなったと言えるのかもしれない。また、一人一人が知識人に近づいていく必要があるご時世と言って良かろう。

学ぶことの必要性は、古代から変わることはないはずだ。よりよい判断をするために、そして自分の快楽のために学ぶことが、引き続き価値を持つのだろう。また、大げさに言うのならば、それは人間の尊厳ではないかとも思うのである。

ま、ぼちぼちやりましょう。

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経済対策とコミュニケーション、失敗二つ [経済]

新型コロナウイルスに伴う経済の減退で、政府与党は様々な対策を打ち出している。

小口貸付金や雇用調整金の拡充など施策は多岐に渡っており、今回の現金給付なども含め、万全とまでは言えないが、ミクロレベルではそれなりに対応している。また、報道を通じ、検討途中の施策について様々な観測気球が上がっている。

ただ、それらの施策や検討状況の情報が政府与党の対応への信頼感を増しているとは、お世辞にも言えない。むしろ牛肉の商品券やら何やらの観測気球や、世帯二枚のマスク支給と言った個別施策に人々は一喜一憂し、悲憤慷慨しているのが現状ではないか。

もちろん、その原因の一端がマスメディアにあることは言うまでもない。しかし政府の伝え方に問題が無いかと言うと、そうとばかりも言い切れないのではないか。

いささか後知恵にはなってしまうが、そこには、今回の経済政策におけるコミュニケーションに、これまでのところ、失敗があったと言わざるを得ないと思う。

では、その失敗はどこか。個人的には二つあったのではないかと思っている。

■失敗その1:国民全体へのメッセージの不足■

一つ目の失敗は、「全ての国民・住民を見捨てない」というメッセージ発信が不足していることだろう。

新型コロナウイルスの感染爆発を少しでも防ぐには、様々な自粛要請や在宅勤務への要請をはじめ、日本国内の全ての国民・住民の協力が不可欠だ。したがって、対策のステークホルダーは全ての国民・住民のはずである。

しかし、発表される個別施策は、直近報じられた世帯への現金給付を含め、いずれも、一定の要件を満たした企業であったり、個人であったりで、国民すべてを網羅するものではなかった。また、検討途中で観測気球的に報じられる施策も、特定の業界のみに配慮したものでしかなかった。

これでは、施策の対象とならない人々は「自分は政府から見捨てられたかもしれない」と疑心暗鬼になる。そして政府の新たな発表を見て自分が含まれないのを見ては失望と疑心暗鬼を新たにする、という悪循環に陥ってしまったのではないか。

やはり、国民全体を対象としている旨のメッセージと、それを示唆する具体的な行動を繰り返し繰り返し発表しなければならないのではなかろうか。

■失敗その2:対策の全体像の発信の欠如■

もう一つの失敗は、一つ目とも関連するが、経済対策の全体像の発信が欠如ないしは著しく不足していることだと思う。

決まった内容を小出しに発表するとともに、観測気球を上げて報じられた反応を見て微調整するような今の政府のやり方は、率直に言って非常にわかりにくい。

敢えてフォローするならば、調整が終わって確実に実施できることをなるだけ早くリリースしたいという気持ちは分かるし、やるべき施策の世論の反応を見たいというのも、理解できなくはない。

しかし、小出しにすればするほど、そこへの議論に報道や世論や専門家が群がって様々な情報が発信され(「マスク!マスク!」とか「現金給付の対象制限」とか)、全体を見ればどこかに自分が対象となる施策があるにも関わらず、「自分が見捨てられた」という要らぬ不安や憶測を生む。

また、当面注目されているもの以外の対策の情報がぼやけてしまい、必要な人に情報が届かない恐れも高まる。

やはり粗っぽくていいから、

・施策全体の大まかなカテゴリ分けとその目的
(当座の生活および支払いの保証、景気回復の加速化とか)
・各カテゴリ内の主な施策メニュー
(税や保険料の猶予・繰り延べ、特定業界への補償金とか)
・各カテゴリ及び施策の実施時期(短期、中期とか)

くらいの全体像をはっきりと、しかも繰り返し示し、定例会見等でそのフォローアップを行うべきだったと思う。その方が、

・自分がどのカテゴリで支援の対象になるのか
・どの施策の対象になるのか
・それが短期の話なのか中期の話なのか

など、まだ決定されていない施策についての予測可能性が生まれるし、それによって人々がよりよく理解できると思うのである。


このように、現在の政府の対策には、内容はもちろんだがその伝え方により深い問題があるのではないかと思っている。

とはいえ、新型コロナウイルス対策は長期戦となるのは確実だし、経済対策も、一過性のものを一発撃っただけじゃ意味が無く、各種対策のリリースは続くはずだ。せっかく関係者が知恵を絞り、調整をした結果の対策が利用されなかったり、不当に低く評価されるのはよろしくない。

やはり経済対策に関する政府のコミュニケーションが少しずつでもより洗練されてくることを、どうか期待したいものである。

≪参考≫
■新型コロナウイルス感染症 ご利用ください お役立ち情報(首相官邸)
https://www.kantei.go.jp/jp/pages/coronavirus_index.html

■現金給付、1世帯30万円=所得減が条件、自己申告制―新型コロナで経済対策
(時事通信社 - 04月03日 15:01)
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6356057

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