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知識人の滅亡、あるいは一億総素人 [雑論]

何らかの専門知識のバックグラウンドを持ちつつ、その知識の広がりと思考から、世の中の様々な問題について傾聴に値する意見を発信することで、人々を啓蒙し、その判断や意思決定をサポートする。

そんないわゆる知識人は、もはや滅んだのではなかろうか。

以前からうっすら思っていたが、新型コロナウイルスを巡る状況で、なんとはなしに確信に変わった。

その背景は大きく二つあると思う。

一つは、発信で要求されるものが知識や思考ではなくなってしまったこと。

現状メディアでは、知名度、容姿、会話における当意即妙の反射神経、空気を読む力、媒体の方針と一致する政治的立場など、発信において、蓄積されてきた知識やそれに基づく思考以外のものが優先されているように見えてならない。

専門的な問題に対する、芸能人や著名人によるその分野の最低限の基礎知識を無視した「素人の素朴な疑問」や、やはり芸能人や著名人による「バッサリ切り捨てた」などの表現が大きく扱われる事態が、その好例と言えるのではないか。

もう一つは知識や技能の際限ない細分化・専門分化である。

医師一つとっても、小児科、外科、内科等異なる。感染症の専門家と言っても、研究者もいれば臨床医もいるし、政治や行政と関係の深い公衆衛生分野も、感染症の専門医とは、厳密に言えば異なるだろう。

例えば新型コロナウイルス対応でも、感染症の研究者とされる人が、防疫の具体的な場面で法制度に基づいて人をどう動かすかなどについて、必ずしも豊富な知見をもっているわけではないらしいことがわかった。

専門知識は日進月歩で進歩し、それにつれて細分化してくることは間違いない。この傾向を止めることができない以上、ある分野の専門知識の最先端にいるということが隣接分野への専門知識を保証しない可能性は、今後ますます高まってくるだろう。

このような現状において、僕らがメディアから意思決定に資する視点や情報を得ることは、かなり困難であると言える。なぜならばメディアで語る人の多くが素人であり、なんなら自分らとそう変わりは無い可能性があるからである。

その意味では、一億総素人時代と言っても過言では無かろう。

意思決定や判断のために、知識や情報は必要だ。とはいえ、日々の仕事や生活の中、素養の無い分野の専門知識を追って論文を定期的に読むような時間があるわけではない。自分ができる経験にも限度がある。

僕らは自分の意思決定に資する知識や情報を得るために何をすべきか。

一つは、好きな分野についてだけでも、最先端とは言えなくても、ほほ揺らがないであろう基礎知識を身につけておくことだろう。学部レベルの教科書や、一般向けの新書、啓蒙書などを広く読むことが大事だと思う。そうすれば、少なくとも、当該分野で絶対にありえないことの判別はつきやすくなる。

もう一つは、日々目にする情報や専門家とされる人々の発言、官公庁のリリースなどを比較して、各分野である程度信用できる専門家を自分で見つけていくことだろう。新書や啓蒙書の著者などから探していくと、とっつきやすいのではなかろうか。

さらに言えば、自分の得ている知識や情報に限界があることを常に意識しておくことや、知識や情報のアップデートとそれによる意見や判断の変更を恐れないということも大事なんだろう。

さて、このご時世、確かに、知識人は滅亡したと思う。

しかし逆に言えば、知識人と僕のような一般人の垣根がそれほど変わらなくなったと言えるのかもしれない。また、一人一人が知識人に近づいていく必要があるご時世と言って良かろう。

学ぶことの必要性は、古代から変わることはないはずだ。よりよい判断をするために、そして自分の快楽のために学ぶことが、引き続き価値を持つのだろう。また、大げさに言うのならば、それは人間の尊厳ではないかとも思うのである。

ま、ぼちぼちやりましょう。

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