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戦国時代、七雄雑感 [歴史]

中国の古代史、戦国時代の七雄についてざっくりまとめてみたい。斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙の七国である。必要に応じ、春秋時代にも触れる。

山東地方が中心の斉は、何となく好き。殷周革命の立役者、太公望呂尚が封じられ、春秋五覇の筆頭桓公、名宰相管仲や晏嬰を輩出した大国。田氏に政権移行後も人材発掘に力を入れ、威王、宣王、閔王に渡り秦に並ぶ隆盛を誇るも、閔王の代に燕の楽毅率いる連合軍にボロ負けして没落。栄枯盛衰をしみじみ感じる。統制と軍事の秦の代わりに、文知政策が進む斉が統一したら中華文明はどうなったのか、との好奇心は湧く。

中華の南部を広く支配した楚の、眠れる獅子が眠ったまま終わる感は印象的。春秋時代から周囲を併呑して広い領土を持ち、早くから覇者荘王をはじめ名君も出し、戦国時代でも周囲の侵略に余念が無く、ずっと強国の一角なのに、次第に斉や秦の勃興についていけなくなるのは残念。伍子胥や呉起など優秀な人材の運用でやらかしがちなのに加え、懐王の度重なる判断ミスが決定打か。

西方から勃興し、後に六国を亡ぼし中華を統一した秦。野蛮、虎狼の国などと他国からdisられながら、他国と比べて富国強兵政策で一貫。溢れるジャイアニズム。他国と比べ、皆無ではないものの、後継者争いや国政運営上のミスが少ないのは驚異。また、生え抜きと他国出身交え、人材の扱い方が巧み。百里奚をはじめ、国政改革を断行した商鞅の他、政治家としては樗里疾、甘茂、張儀、魏冄、范雎、呂不韋。将軍としては白起、王翦など煌めくばかり。後知恵だが、勃興と統一は仕方ない。

北方の燕、周王朝建国の功臣である召公奭を封じた国だが、その地理的関係もあってか、どうもパッとしない。子之の乱では斉に滅亡させられかける。その恨み忘れず、昭王の時代、外交努力で多国籍の合従軍を編成し、楽毅に指揮を委ね、強国斉をフルボッコにしたのは唯一の快事。一時の隆盛を得たが、昭王の死後元の木阿弥に。ある意味秦の統一の陰の功労者。

中央部の韓、春秋時代の晋から分裂した三晋の一つ。領土も狭いし軍隊も強くないし、綱渡り外交で細々生き延びた感。他国、特に秦からいじめられっ子属性。申不害を宰相に抜擢した釐侯の治世では、ぼちぼち国内が安定するも、その後は韓非の起用もままならず、今一つのまま結局滅亡に至る。

中央部の魏、やはり三晋の一つ。晋からの独立後の戦国時代初期、内政では李克・西門豹、軍事では呉起・楽羊らを登用し、文侯、武侯の代に強国として隆盛を誇る。ところが恵王に代わると、孫臏擁する斉に重ねて敗北するなど軍事的に陰りが見え、その後は秦に押され気味に。信陵君などを輩出するも、退勢を覆すことはできなかった。

中央北部の趙、三晋の一つ。目立たない存在だったが、武霊王の代にいわゆる胡服騎射の導入など国内改革を進め、中山を亡ぼすなど、一気に強国化。しかし武霊王の死後、後継者争いで疲弊し、やはり秦の圧迫を受ける。廉頗、藺相如、趙奢、李牧など優秀な人材での秦への抵抗は麗しさすらある。でも長平での大敗を頂点に、やはり劣勢は否めず。


戦国時代から秦の統一は、政治的統一に関する考え方について、中華文明として一つの解決策を提示したものではないかと思う。もちろん、はるかに年代を経た現代の中国共産党政権にそのまま当てはめることはできないだろうか、古代から何らかの示唆を得ることもまた、可能では無かろうか。

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日本の仏教についての雑な振り返り [歴史]

折に触れて、良くも悪くも、日本人にとって仏教(ないしは仏教の影響を受けた信仰)の存在感は破格だと痛感する。

おそらく、6世紀半ばに伝来した仏教に接したことは、多くの日本人にとって、アメリカの物質文明に接した敗戦直後以上の、ないしは開国で西洋文明が一挙に流入した幕末以上の知的衝撃を受けたのではなかろうか。

寺院建築や仏像・仏具作成に伴う木材や金属加工の最先端技術、人間の生死という不条理を輪廻転生や解脱として見える化した経典の数々などは、日本人の向学心を大いに刺激したに違いない。それは、宗教や思想だけでない、芸術であり、科学技術であり、倫理であり、建築であり、言葉であり、要はライフスタイルの一大パッケージであったと思う。

例えば7世紀、飛鳥時代の玉虫厨子の各面には、経典にある捨身飼虎などの絵柄が飾られているが、その激しい題材を選んだセンスは、仏教とそれを通じた様々な知識を貪欲に学ぼうとする、時代精神を感じざるをえない。

飛鳥白鳳天平を経て、仏教は、奈良を中心に統治のツールとして確立される。都が京に移ると、奈良の寺院の影響を排した仏教へのニーズが高まり、最澄、空海の登場だ。

法華経を中心に仏教の体系を再構築した最澄の天台宗と、絢爛な仏具や祈祷を用いながら真言を説く空海の真言宗はそれぞれ奈良仏教のアンチテーゼとして普及することになる。平安時代半ば以降、貴族の基礎教養は法華経となるが、荘園制崩壊の足音が聞こえる中、阿弥陀如来導く西方極楽浄土への憧れが高まるのもこの時期だ。

鎌倉時代に入ると、貴族のものだった仏教思想が一気に民衆と武士に広まる。
いわゆる鎌倉時代の新仏教と言うヤツ。

民衆にとっては、浄土宗(浄土真宗)と時宗。例えば法然の絵巻では、祈る法然のもとに雲に乗って法具(グッズ)が飛んできたり、寺ごと極楽浄土がやってきたりする。一遍の絵巻では、踊念仏に興じる貴族ではない民衆の姿が活写されているジュリアナ感。

武士にとっては、禅宗の影響がやはり強い。禅宗は主に宋からの留学層が普及させたこともあり、以後、鎌倉、室町と武家を中心とする社会において、禅宗や宋の絵画芸術の影響を受けた作品が増えてくる。雪舟の水墨画とか。

ところで、伝来から大きな存在だった仏像が、鎌倉時代の運慶快慶を頂点に、以後、芸術の表舞台にはあまり出てこなくなるのが不思議。

さらに時代が下ると、芸術が直接仏教や信仰をテーマとすることはほとんどなくなってくる。安土桃山時代の長谷川等伯や狩野永徳の絵画には、自然を己の力で構築するという自負に満ちている。茶道からも、禅宗を元にしながらも宗教性が薄れていることは間違いない。

おそらくこのような背景にあるのは、生活水準の向上による人間の力の自覚なのではないかと思う。かつてはライフスタイルの体系であった仏教は、こうして、芸術、科学技術等々、様々な方向に分解され、吸収され、そして解消されていくことになる。

さて、21世紀、令和の世間。

かつてのように仏教が直接生活を律することはほとんどない。しかし、日本人が信仰をツールとして仏教という大きな物語をたくみに取り入れながら日々のささやかな暮らしを送っていた時代が厳然としてあったことは、たまには思い出してよい。

信仰について聞くことが稀となってしまった現代、かつてと今の日本人の幸せ感にどれだけの違いがあるのだろうか、などと澄んだ瞳で思いを馳せる日々なんである。

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勝手な感情移入、明智光秀 [歴史]

戦国武将の中でも、明智光秀には、なぜか、結構魅かれるのである。

日本史上屈指の裏切り劇である「本能寺の変」の立役者。その直後に羽柴秀吉に惨敗し、敗走中のところを土民に殺される、あまりにあっけない最期。そこには、覇気あふれる野心家の挫折というより、出世の頂点にありながら初老を迎えた男の疲労と倦怠を感じてしまう。

最近では研究が進んでいるのかもしれないが、明智光秀の前半生は、どうも、ほとんどわかっていないらしい。

信長に仕える直前は、越前の朝倉家に仕え、そこに寄宿していた足利義昭配下、細川藤孝と親交を持ったことが窺える。細川との親交のきっかけは、連歌等の社交や教養によるものだそうだ。当代一の教養人である細川藤孝と親交を結べる当たり、只者ではない片鱗こそうかがえるが、あくまで、朝倉家の一被官に過ぎない。サラリーマンなら、平社員か、主任といったところか。

そして、信長による義昭庇護に伴い、光秀も織田家へ。当初は義昭と信長の両方の家臣扱いだったのが、いつしか信長の家臣となる。生年は不詳だが、様々な説によれば、このとき光秀は40歳くらいだったらしい。譜代でもなんでもない、まさに中途採用だ。

そこから約15年。曲折を経つつも、光秀は天下統一を進める織田家の最高幹部の一人にのし上がる。近江・丹波を中心に所領を構え、近畿の武将を与力として傘下に置いたその立場は、研究者によれば、「近畿管領」「近畿軍管区司令官」としての扱い。柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益らとならぶ、方面軍団長だ。それは、急成長の結果日本最大となった大企業における、取締役にも匹敵する立場だったに違いない。朝倉家の一被官とは雲泥の差だ。

細川藤孝の知己を得られるほどの教養と才気、信長に愛された折衝力や軍事的才覚に加え、今なお丹波地方で称徳されているように、光秀は、民政においても卓抜した手腕を示していた。

そんな順風満帆なはずの明智光秀が起こした暴挙、本能寺の変。信長弑逆。

遺恨・怨恨、野心、陰謀、様々な背景が語られる。そのいずれにも、それなりの理由はあるのだと思う。ただ、個人的には、コップに水が一滴一滴注がれて、表面張力いっぱいのところに落ちた不意の一滴が、無防備な信長だったのではないかと思ってしまう。

40歳過ぎた外様の家臣である明智光秀にとって、織田家は、そして信長は雄飛の機会を与えてくれた大恩ある存在だ。ただ、近畿管領とまで言われる権勢を誇る光秀も、本能寺の変のときには50歳半ば。当時としては隠居を考えてもおかしくはない年ごろだ。もっとも、光秀も隠居はできなかったろうし、信長も許しはしなかったろう。

端的に言えば、光秀は、疲れ果てていたのではないかと思うのである。先述のとおり光秀の前半生は不明だが、その知識や教養が評価されたことから、少なくとも幼少期までは、それなりの富裕層で、文化資本のしっかりした家で育てられたのだと思う。つまり、その時代における出世や振る舞い方について、ある程度の型をもっていたに違いない。

ところが、信長の人の使い方は、その型をどんどん破っていくスタイルだ。譜代の家臣である佐久間信盛や林通勝を追放したと思えば、秀吉や滝川一益など、実績を作った家臣を抜擢していく。皮肉なことに、光秀もその型を破ったスタイルのゆえに登用され、出世の街道を邁進した。

しかし、自分が年を取るにつれ、身に着けたある種の人生の型とそれが壊されていく現実に寂しさを覚えたのではなかろうか。そして、自分が信長の切り開く新しい時代にいるべき人間なのかどうか、自問し、焦燥を感じていたのではなかろうか。

そして、過去の人生の型の中であれば隠居でもして悠々と余生を送る年ごろになって、まだ、秀吉や柴田勝家らと競争を続けなければならない現状に、日々、しんどくなっていったのではなかろうか。そして、しんどさとともに、様々な信長による様々なイジリによる屈辱などが思い出され、その一方で、信長に従うことで今の地位を得てきた自分を振り返り、こんがらがった感情の中にいたのではないか。

そんな、こんがらがった感情からどうすれば逃れられるか煩悶しつつも、光秀は、日々の仕事を着実にこなしていったに違いない。そして、あるとき、万を超える軍勢を率いていた光秀に、本能寺に宿泊する信長の情報が入る。

あ。

表面張力ギリギリに張りつめていたに違いない光秀の心の器から、水が一滴、こぼれたのだと思う。あとは、一瀉千里だ。本能寺奇襲、信長の横死、秀吉の中国大返し、山崎合戦の敗北、そして敗走中に土民に殺されて終わる生涯。

才覚や教養に恵まれるも前半生を平凡に過ごし、信長と出会い、その天下統一を支えて破格の出世を果たし、そのこと自体が自分の勝手知ったる世界の型を一新していく。そして、その新しい世界に自分がいられないかもしれない焦り、ついていけないと感じてしまう疲労と倦怠。そんな、時代の狭間でもがき苦しむ人間としての明智光秀を、僕はどうも好ましく思ってしまう。

まあ、このような光秀像は、小説なりなんなりで見た僕なりの光秀像だし、それだって、研究が進めばきっと大きく変わってしまうのかもしれないが。

さて奇しくも、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、明智光秀の生涯がテーマとのこと。ドラマは見ないけど、どんな光秀像か、なんとはなしに楽しみにしてしまう年末のある日なのである。

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素人の主観としての雑な絵画史、ラファエロ以後 [歴史]

ラファエロと言えば、ダヴィンチ、ミケランジェロと並び称されるイタリア・ルネサンスの天才との触れ込み。大物だ。その絵画は、一言でいうなら、心地の良い絵画空間を構成する。そして、その心地よさは、どこか、倦怠にも似ているような気がした。

西洋の絵画芸術を人間世界に取り戻した【point of no return】の代表選手が、ラファエロではないかと思う。

古代ローマ後期以降、人間の営為に絶望して普及したキリスト教は、全てのものを神に、そして宗教生活に従属させた。もちろん、絵画もその例外ではない。

イスラムを通じてキリスト教「以前」を知った地中海世界は、「神」を一気に相対化させ、ルネサンスが始まる。光学の理解による遠近法や解剖学を前提とした人体描写による絵画世界は、中世絵画とは完全に一線を画す。

また、画家個人の自我の自覚がなされるのも、このころからだ。

題材も、聖書を中心とする歴史画から、少しずつではあるが、より身近な存在である肖像画であったり、同じ歴史画であっても、キリスト教ではないギリシアやローマなどにシフトしていく。

このような、技法や技術、画家個人への注目、題材の多様化などは、ラファエロで一つの完成に達し、広く西洋に普及したのではなかろうか。

ミケランジェロで確立され、ラファエロで完成された方法論は、より強い表現を求めつつ、マニエリスムの袋小路で輝く。

反キリストを内包するルネサンス文化を警戒する教会は、より分かり易く、ドラマチックに聖書の世界を描く光と影のバロック様式を生み出した。しかし聖書よりも着目されたその絵画技法は、プロテスタントが栄えるネーデルラントで、ルーベンスやレンブラントの絵画として花開く。

荘重なバロックから軽快な宮廷生活を描くロココ様式、古典主義、ロマン主義、写実主義へと絵画の対象は移り変われど、そこには様々な人間の生活や生き様、そして物語が映し出されることに変わりはなかった。

模倣するにせよ反発するにせよ、ルネサンス以後の西洋絵画は、一度は、「ラファエロ的」なものを通過しているのだと思う。だからこそ、ラファエロの一連の絵画を見たとき、どこか、倦怠や既視感に似た心地よさがあったのだろう。

ルネサンスが、キリスト教から絵画を解放したとすれば、視覚や光学のさらなる知識の普及から生まれた「印象派」は、絵画そのものを他の芸術から自立させるきっかけとなったのかもしれない。

絵画が、平面に盛られた絵の具の塊である以上、そこには、何らかの具象物を映し出す必要は無い。

19世紀末以降、人間の内面への関心が高まるにつれて、神話や色、形のイメージを借りて、目に見えないものを映し出す象徴主義が現れる。

また、絵画が絵の具の塊であるとすれば、例えばアングルの裸婦像も、線で区切られた絵の具の平面に過ぎない。人に何らかの感動を与える表現であればいい。

ここまでくれば、モンドリアン、カンディンスキー、ポロックまでは、ほんの一息だ。絵画はここで、何かの模写や模倣ではなく、自立する。

ただ、絵画の自立が絵画と画家にとって有益だったかは、分からない。

結果、絵画の世界は、画家が自我と表現を競うあまり、一人一人の世界に細分化され、孤立化をしてしまったのではなかろうか。

孤立化した絵画は、まるで磨き上げられた壁面のように、他者の理解と共感を拒絶してしまう。それは、共通項であったはずの人間性が、個々の主観に分断されている現代を象徴するかのようだ。

なんて素人の記憶をまさぐりながら、西洋絵画を雑に振り返ってみる師走の午後なのである。

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