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元老雑話~伊藤、山県、西園寺を中心に~ [歴史]

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明治から戦前の昭和にかけて、日本の政治には、「元老」という存在がいた。徳川幕府から明治政府への改革や、生まれたばかりの明治政府の維持発展に尽力した政治軍事の長老元勲たち。

彼らはそれぞれのチャネルを持って国内外の情勢にアンテナを張りつつ、天皇の諮問に応え、政府当局者に助言や指導をし、国政上重要な意思決定に参画する。特にその存在感が発揮されるのが、内閣総理大臣の選定である。元老たちは、時の内閣の生殺与奪の権を握っていたといっても過言ではない。

大日本帝国憲法に一言たりとも記載されていない存在であるにも関わらず、彼らは、国政に対して事実上大きな権力を行使する立場にいたのである。

1:元老たちの概観

そんな元老たち。その範囲や定義には専門家の間でも議論はあるが、薩長藩閥出身者を中心に、概ね以下が該当するとされる。

・伊藤博文(長州出身)
・山県有朋(長州)
・井上馨(長州)
・黒田清隆(薩摩)
・西郷従道(薩摩)
・大山巌(薩摩)
・松方正義(薩摩)
・西園寺公望(公家)

それぞれ簡潔に紹介すれば、まず、明治天皇からの絶大な信頼を背景に大日本帝国憲法の起草その他をリードし、当時のジャーナリスト池辺三山が元老政治の発明者と呼んだ伊藤博文。軍人出身ながら、陸軍のみならず官界や貴族院に自らの派閥網を張り巡らせ、晩年には伊藤を凌ぐ権勢を振るった山県有朋。伊藤博文の盟友であるとともに財界との太いパイプを持ち、外交と経済政策に一家言ある井上馨。

西郷大久保亡き後の薩摩閥の第一人者である黒田清隆。明治初期の困難な財政対応の矢面に立ち、その後も財政の専門家として盤踞する松方正義。西郷隆盛の弟であり、主に軍政面で活躍した西郷従道。日露戦争における満州軍総司令官として活躍した大山巌。

そして、元老中最も若く、第二次大戦開戦時および日米開戦の直前まで存命した、公家出身、最後の元老西園寺公望。

彼らはまとめて元老とは呼ばれるものの、それぞれの専門分野や国政への関心度合いも大きく異なる。

この中で、黒田は元老としての存在感を発揮する前に体調不良を重ね亡くなった。西郷は一時朝敵であった兄隆盛への配慮から、大山は日露戦争後内大臣として宮中のサポートに徹したことから、大臣や軍人としてはともかく、それぞれ元老としての存在感は薄かった。井上・松方は経済財政を睨み、往時は現職大臣と元老二人を指して「大蔵大臣が三人いる」と呼びならわされたが、国政全体への意欲は高くなかった。

その意味では、「元老」としてこそ活躍したと言えるのは、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望の三人であると言えるのではなかろうか。そこで、この三人の元老についてもう少し述べることで、自分にとっての明治・大正・昭和への理解の補助線としてみたい。

2:三人の元老。伊藤博文、山県有朋、西園寺公望

まず伊藤博文。

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言わずと知れた初代内閣総理大臣。長州の木戸孝允傘下で働きながら、新政府では薩摩の大久保利通の信頼をも勝ち得、国政の中枢に。木戸、大久保の死後、明治14年の政変で大隈重信を追い落とした後は、明治天皇の厚い信頼を背景に国政の第一人者として君臨する。総理大臣や枢密院議長や韓国統監や立憲政友会総裁など、次々と新しいポストを作っては自分で就任し、制度としての道筋をつけていく。

知的好奇心が旺盛で欧米の知識の吸収に余念が無い一方、物事の進め方は、理知的かつ現実的な漸進主義。逆境に遭うとさっさと辞職なり退却なりして、捲土重来を期す柔軟性の持ち主でもある。個人的な自負心と名誉欲に溢れ、しかも今日の基準ではスキャンダル必至の女好き。自分の能力への自信のためか、部下や派閥を育てる意識は薄く、その点は山県有朋とは実に好対照だ。

個人的に印象的なエピソードは、日露戦争後、満州への関与の強化を主張する児玉源太郎に対し、満州の施政に対して日本は国際法上の権利を有していないとして一喝したこと。日露戦争勝利の立役者である児玉大将の主張を頭ごなしに封じ、しかも理屈で鬼詰めしてみせる。伊藤が長州閥の先輩であるとはいえ、昭和の軍人による国政の壟断を思うと、健全な文民統制の凄みを感じる。

晩年は立憲政友会を立ち上げ、日本の本格的な政党政治に道筋をつけた他、韓国を保護国化した後に統監として辣腕をふるった。憲法起草や政党政治の運用、韓国の植民地化など、大日本帝国という、敗戦に至るまでの「この国のカタチ」を作った人と言えるだろう。まさに元老の第一人者である。

1909年、68歳。哈爾浜での安重根による暗殺は、様々な意味で惜しまれる。その一つに、政府での軍歴の無い文官ながら、国益のために軍部を真正面から批判し、抑えつけられる権威と権力と胆力を持った政治家の系譜が一つ失われたということがあるだろう。

次に山県有朋である。

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幕末長州の奇兵隊を皮切りに軍人としてのキャリアを積み、新政府では徴兵制をはじめとした軍政の確立に尽力。その後行政、政治にも参画し、地方自治や司法行政などに従事。総理大臣や参謀総長など、政治軍事の頂点を経験しつつ、軍隊と行政機関と貴族院に強固な山県閥を作り上げ、晩年は元老として伊藤博文に拮抗、あるいは凌駕さえする権勢を誇った。

開明進取に富んだ伊藤と比べ、政治的には保守的であり、民主主義や政党政治には一貫して懐疑的ではあったが、倦まず弛まず知識や情報の収集と人脈の形成を続ける山県の、特に国際政治における判断は非常に鋭いものがあった。例えば、日英同盟の推進であったり、対華二十一か条要求への不満であったり、シベリア出兵への反対論など。

旺盛な権力欲をエネルギーに、政・軍・官界で作り上げた派閥網は山県に大きな権力をもたらしたが、晩年は、後継者と目を付けた指導者層をコントロールしようとするあまり、彼らと陰に陽に反目を繰り返すことになる。桂太郎しかり、寺内正毅しかり。最後は、皇太子の婚約をめぐる政争(宮中某重大事件)に敗れ、国政への影響力を失ってしまう。

1922年、83歳で亡くなったのち、山県が陰で君臨していたといってもよい軍部は、重しが取れたかのように、対外的膨張に向けて蠢動する。皮切りが、1928年の張作霖爆殺事件。

派閥網を通じて人を動かす政治手法や、保守的で慎重で閉鎖的な性格、さらに国民に信を置かない性質は、国民から好かれることは無かったが、新しい政治体制を作ろうと試みる伊藤博文との間の対立と協同の緊張関係を通じ、日本を強国へと押し上げる立役者になったことは間違いないだろう。池辺三山は、「棚卸しをしたら日本のためになったことがよほど多い」と評していたが至当だと思う。

そして、西園寺公望だ。

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薩長出身者からなる元老の中で、唯一の公家出身者。戊辰戦争への従軍や海外留学経験等を経て、主に伊藤博文の腹心として働き、文部大臣などを歴任。伊藤の立憲政友会立ち上げの際にはその幹部となり、伊藤の後、政友会の総裁に。日露戦争時、総理大臣桂太郎への協力と引き換えに、戦後総理大臣に就任。以後、明治の終わりから大正初期にかけ、桂と交互に政権を担当する桂園時代を現出させた。

西園寺は、例えば漢籍への教養は研究者顔負けと呼ばれるほど、非常に高い識見や文化的素養を持っていた。ただ、伊藤や山県のように、権力への意思や政治への意欲を表に出すタイプではなかった。そのため、政友会総裁時には、党勢拡大を試みる幹部の原敬に、何度となく歯がゆい思いをさせている。

伊藤が暗殺され、山県も亡くなり、松方正義も89歳の生涯を終えると、西園寺は生存する唯一の元老となった。西園寺は、その家柄からも政治的実績からも、元老として天皇を補翼する熱意こそ疑いないものの、元老としての在り方は伊藤や山県とは明らかに異なる。二人のように、己の意思をいかに通すかではなく、議会や政党や行政や財界や宮中や重臣などの関係をいかに調整するかに腐心した節がある。

おそらく、国そのもののカタチを作る過程にあった伊藤や山県と異なり、大日本帝国という仕組みをいかに運用するかが西園寺の主な課題だったのではないか。そのため、西園寺は元老を増やすことをしなかった。内閣なり政党なりを指導する人間が主導すべきであって、元老という、いわばイレギュラーな存在は無くなるべきと考えていたのだろう。

しかし、政党の腐敗や経済の苦境を背景に、軍部などによる暗殺やクーデターが喝采される昭和初期の日本で、西園寺は一定の権威を保ちつつも、それらを止める権力を行使しえなかった。1940年、西園寺が90歳で死んだ翌年、日米開戦。

3:元老の意義と限界

大日本帝国憲法やその他の法令に根拠を持たない元老という存在は、そしてその存在が強い権力を行使することは、確かにイレギュラーだった。ではなぜ元老が必要とされたのか。

一つが、国家的な事態における、いわば内閣の補完であろう。

例えば、日露戦争のような国家の存亡が関わる事態において、日常業務を抱える内閣を助ける意味で、閣僚等の経験豊富な元老たちがいるのは、国家としては悪いことではなかろう。ただ、内閣の当局者としては、いささかやりづらかったに違いない。

もう一つには、大日本帝国憲法のいわば不具合に関する保険があるのではないか。

大日本帝国憲法では、閣僚の罷免権が無いなど内閣を率いる総理大臣の制度上の権力が弱いことに加え、内閣と議会は制度上独立している。また、天皇は主権者にして統治権の総覧者とされるが、立憲君主制を律儀に守れば、内閣の意向を基本尊重することにならざるを得ない。この場合、何かのきっかけで内閣が機能しなくなった場合、天皇も動けず、国政全体が機能不全になってしまう。

元老は、そのような大日本帝国の不具合を解消するための、いわば保険だったのではなかろうか。

ただ、元老たちが内閣を主導していた時代や、桂園時代にはそのような事態は生じにくかったと思われる。ある内閣が機能不全になった場合でも、さっさと交代させて、他の元老や、桂ないしは西園寺が政権を担当すればよいのである。

日露戦争での元老の動きを見、桂園時代で内閣総理大臣として自ら政権を運用した西園寺は、後進である内閣や政党の指導者が実力をきちんと発揮できるならば、制度的にイレギュラーな元老は不要であり、自らは制度上定められた内閣や政党が機能することを期待して、最後の元老となることを決意したのだろう。

しかし、大日本帝国憲法の不具合は昭和に入って明確になる。軍部による政治の壟断や、テロによる要人殺害とクーデター未遂という裸の暴力と、それを支持する報道や民意に対して、結果論とは言え、大日本帝国憲法やその規定する政治体制はあまりにも無力だった。依然元老としての権威を持っていた西園寺も、伊藤や山県のような権力を振るえず、むしろ暗殺される危機にすらあった。

結局、そのような元老政治を克服し、かつ、テロや暴力ではなく、憲法に従った国政の運用には、敗戦と日本国憲法の制定を待たねばならなかった。

日本国憲法では、天皇は統治権の総覧者ではなく国家と国民統合の象徴となり政治的権能を有しない。内閣総理大臣は閣僚の人事権を持つため、内閣、すなわち行政へのリーダーシップが確立されたとともに、国会での指名に基づくことから、立法との協働もある程度担保されることになる。

伊藤博文、山県有朋、西園寺公望という三人の元老が日本国憲法に基づく今日の日本を見たら、どのような感想を持つだろうか、そんなことを、ついつらつらと考えてしまいたくなるのである。



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