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漢の三傑雑感~張良、蕭何、韓信~ [歴史]

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漢の三傑、すなわち、張良、蕭何、韓信の三人の史伝を読むのが好きなんである。

まず張良。張良は、劉邦から「俺は張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決する事は出来ない」と評された策謀家であり、劉邦の意思決定をサポートする、まさに軍師であり参謀である。

戦国七雄の一つである韓の大臣の家系である張良は、婦女子の如くと言われた柔和な容貌ながら、韓を滅ぼした秦の始皇帝の暗殺を試みる硬骨漢でもある。劉邦に仕え、策略をしかけ献策を重ねるが、特に、劉邦が西楚の覇王項羽と対峙した際、儒者酈食其の献策により戦国の各国を復活させようとした劉邦に対し、七つの具体的な理由を懇切丁寧に説明しその翻意を促すくだりは、張良の軍師としての面目躍如たるものがあると思う。漢王朝成立後は公職からほぼほぼ引退し、皇帝家の相談に乗るくらいで、天寿を全うした。

次に蕭何。劉邦は蕭何につき、「蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させる事は出来ない」と評し、その手腕を高く評価している。その本分は、卓越した行政官であり政治家である。

若くして有能な下級官吏だった蕭何は、秦末の混乱に伴い同郷の劉邦をいただき、その幕下に参じる。劉邦が軍を率いて秦の故地関中およびその都咸陽に進駐した際には、財宝や美女には目もくれず、秦の法令文書や行政記録の保全に奔ったという。項羽との楚漢戦争では、出陣する劉邦の留守を守り、糧食や物資を供給し続けた。劉邦が漢の帝位についてからは、並み居る将軍を差し置いて功績首位に。漢では、丞相ついで相国として国政の最高責任者になり、劉邦の猜疑を躱しつつ何とか保身に成功。統一中華の礎を築いた。

そして韓信。「韓信のように軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない」と劉邦から評され、軍事指揮官としては折り紙つきである。確かに、楚漢戦争での軍事的活躍は戦国時代の楽毅や白起の活躍に勝るとも劣らない、中国古代史最高の将軍の一人だと思う。

韓信は素性もそれほどわかっていない。はじめ項羽に仕えたが逃げ出し、項羽から漢王に封じられた劉邦に仕えるも、閑職に回され逃げ出しかけたところを蕭何に説得され踏みとどまり、その推挙もあって、劉邦から破格の抜擢を受け軍事指揮官に。その後は、軍を率いて巴蜀から関中を併呑。別動隊を組織して、劉邦が項羽と対峙している間に、趙、代、燕、斉と各国を次々と攻略。国士無双の武功で、漢王朝では斉王、次いで楚王に封じられるも、反逆の嫌疑を受け、蕭何の策にかかり、得意の兵を挙げる前に粛清される。

漢による中華統一後、全てをあっさりと擲って隠遁生活に入った張良、保身に汲々としつつ相国として辣腕を振るい統一中華文明の基礎を作る蕭何、そして、圧倒的な軍事的実績を誇りながら叛乱の嫌疑をかけられて誅殺される韓信。

これらに比べると、高祖劉邦の能力や振る舞いは分かりにくい。しかし、彼ら三傑の力を存分に発揮させて秦を打倒し、西楚の覇王項羽を打倒し、漢王朝を打ち立てたその功業は、劉邦の存在無くしてはありえまい。むしろ、策謀や行政手腕や軍事といった三傑のそれぞれ卓越した能力でカバーできなかった「空白」こそが、劉邦の本領なのだろう。

張良、蕭何、韓信、そして彼ら三傑で埋めきれなかった空白を埋める、君主としての劉邦。

三傑の史伝そのままでもそれぞれ個性豊かで十分に面白いが、人間が大功を成すときに何が必要か、史伝を通じて知る劉邦による漢の創業の過程から、考えさせられることしきりなのである。



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