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折に触れて雑感、諸葛亮孔明 [歴史]

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諸葛亮、字は孔明。181年生~234年没。子供のころから、折に触れて彼のことを考えている。

言わずと知れた中国三国時代の蜀漢の宰相、諸葛亮は、荊州に寄寓していた流浪の将軍劉備から三顧の礼で招聘されて仕え、その死にあたって後事を託されるほどの信頼を得る。その信頼に応えるべく、劉備の子劉禅を補佐し、カリスマ・劉備死後の蜀漢王朝の安定化に尽力。

三国の魏はおろか呉と比べても貧弱な国力の蜀漢を支えつつ、晩年は漢王朝から禅譲を受けた魏を滅ぼすべく北伐を繰り返すが、その志半ばにして陣中に没する。まさに、秋風五丈原。物語『三国志演義』では、神算鬼謀の軍師として描写され、終盤ではもはや主人公と言っても過言ではない存在感である。

子どもの頃は、三国志演義やマンガから、やはり神算鬼謀の軍師というイメージが強かったが、歴史書である正史『三国志』などを読むようになると、峻厳な政治家にして軍事指導者像が浮かび上がる。そして、寿命の半ばは過ぎ、いい年のおっさんになった今改めて諸葛亮の業績を見ると、自らの思いのためにあらん限りの知力精力を絞り尽くした、一人の男の生き様が映ってくるようになった。

夷陵の戦いに大敗北を喫し、多くの将兵や人材を失っただけでなく、敗戦のショックで皇帝劉備まで失った蜀漢。後継者の劉禅はまだ幼く、劉備のような実績も名声もカリスマも無い。219年、劉備の漢中王即位で飛ぶ鳥落とす勢いだった蜀漢が、わずか四年後の223年、まさに国家存亡の危機に陥る。

丞相である諸葛亮は、まさに獅子奮迅の活躍でその危機を収拾する。しかも収拾だけでなく、新たに魏国への北伐を可能にする国内環境を整えさえしたのである。その間、四年ばかり。

おそらくは国内にあったであろう激烈な反対論を抑えて、劉備や関羽の仇であるはずの呉との同盟の復活。『三国志演義』では南蛮遠征として語られる南方の反乱鎮圧。その合間を縫って、魏国の状況調査や周辺異民族の懐柔や協力関係の模索、さらには一度は蜀を離れた魏将孟達への調略など、外交や軍事に余念がない。

その他史書には語られていないが、国内の治安や経済の回復、軍事動員体制や物資の輸送網の構築、人材登用と国家運用の組織整備、諸葛亮の国家指導体制の確立など、諸々の内政がなされていないはずはなかろう。それらの集大成、北伐の決意表明である「出師表」の上奏が、227年。

史書によれば、諸葛亮が政治の細部まで自ら目を通していたというワーカホリックぶりに、魏の司馬懿がその死を予期する描写があるので、これら、劉備死後の国の立て直しも、諸葛亮が全権を振るったに違いない。

いい年をして仕事をするようになると、これら、外交・軍事・内政で行われた各々の施策一つだけでも、それなりの大仕事であることが肌感覚でわかってくる。これを概ね四年で片づけた諸葛亮の辣腕ぶりには、ただただ驚嘆である。

そして、五次にわたるとされる、諸葛亮の北伐。

各次の軍事的評価については諸々あろう。ただ、敢えて漢の高祖劉邦が似たようなルートで漢中から三秦を滅ぼした時と比べてみれば、その差に愕然とする。

劉邦は、本人の能力はもちろん、謀臣である張良、内政に長けた名相・蕭何、そして、中国古代屈指の軍事的天才・韓信を擁していた。また、三秦の支配者たちは、項羽による秦軍捕虜の生き埋めを防げず、秦の民衆からの信望が無かった。整った人材と国力で、民の信望の無い支配者を討ったのだ。後知恵だが、これは勝てる。

しかし、諸葛亮の下には、高祖はおろか、張良も蕭何も韓信もいなかった。むしろ、それら全てを諸葛亮が兼ねなければならなかった。また、後漢末の戦乱をどうにか抑えた魏国の統治は概ね成功しており、人士もそれなりに支持していた。しかも、諸葛亮と対峙した魏国は、第一次北伐時の夏侯楙を除き、曹真、司馬懿、張郃らという当時の名将を投入し、加えて皇帝の曹叡も優秀。

そもそも国力で劣り、人材でも勝るとは言えず、政治状況も有利ではない。これで魏国を亡ぼそうという諸葛亮の試みは、率直に言って無理ゲーだ。

しかし、諸葛亮はそれに挑んだ。さらに驚くべきことは、皇帝劉禅はじめ、蜀漢の国内も、政治家や将軍から官吏や民衆に至るまで、そのことに大きな疑問を抱かなかった。特に民衆は、連年の動員や物資の挑発で、生活が苦しめられているにも関わらず、諸葛亮の政権や北伐を脅かすような大規模な反乱は、ついぞ起こらなかった。しかも、史書には民衆の怨嗟の声がほぼほぼ出てこないのである。

このような蜀漢の政治状況は、様々な要素からもたらされたものだろう。

崩壊してしまった漢王朝への思慕、漢王朝を滅ぼした魏国への素朴な怒り、劉備という強烈な人物の遺徳、国家としては貧しくても概ね公正な政治等々。そして、これらの要素を総動員した諸葛亮の手腕。

思えば蜀漢という国は、劉氏による漢王朝復興という目的をアイデンティティとした、イデオロギー国家だったと言えるのかもしれない。そこでは、無理ゲーに見える魏国への北伐は、国民にとって、息をするのと同じくらい自然なことだったのだろう。その仕組みを作った立役者こそは、諸葛亮のはずである。

諸葛亮は、234年、北伐の最中、五丈原の陣中で病没する。それは、漢王朝復興という蜀漢のイデオロギーを体現するために、知力と能力と精力の限りを燃やし尽くした人生だったと言えよう。

諸葛亮においては、その能力もさることながら、あまりにも精力的なその働きぶりこそが恐るべきである。おそらく、原動力の源は、名も無き若き日に稀代の英雄劉備に見出され、「水魚の交わり」として、その義兄弟ともいわれた関羽や張飛よりも厚遇されたことに対する、素朴な感動と感謝だったのではないかと思う。

ローマ皇帝アウグストゥスにとってのカエサル、西郷隆盛にとっての島津斉彬、アメリカ大統領クリントンにとってのケネディなど、歴史上の人物が、若き日に尊敬でき名声のある年長者の知遇を得た感動をその後の人生の原動力にすることは、少なくない。「士は己を知る者のために死す」。諸葛亮も、きっとそうだったのではないか。

さて、諸葛亮自らは、春秋時代の名相・管仲と、戦国時代の名将・楽毅に己をなぞらえていたらしいが、正史の編者陳寿は、管仲はそのままに、楽毅ではなく漢の名相・蕭何と並べ、諸葛亮を評している。

三国における弱小国蜀漢の宰相に過ぎず、北伐も奏功せず、世界史的な業績としては、諸葛亮は管仲・楽毅・蕭何に及ばないかもしれない。しかし、諸葛亮という人物の活躍と挫折は、その折々に色合いを変えながら、自分の心の中の一つの灯として、残り続けているのである。

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