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北条早雲、あるいは伊勢宗瑞に関する雑感 [歴史]

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新たな研究成果によって歴史が上書きされるのは世の常だが、戦国時代の武将では、後北条氏の祖とされる、北条早雲((1432年?)1456年?-1519年)がその好例かもしれない。

子供のころ見聞きした北条早雲は、出自がほとんど分からぬ伊勢の素浪人出身。50歳という当時としては老境と言ってもいい年齢から、駿河守護今川義忠の妾だった姉もしくは妹を頼って地歩を得て、機略縦横の活躍を見せ、伊豆と相模の国持大名となる。そして、以後豊臣秀吉に滅ぼされるまで、約100年続いた北条家の開祖となった。まさに下剋上と立志伝中の人物であり、戦国時代の幕開けを象徴する武将だった。

ところがだ。

現代の研究によると、先述の話がかなり変わってくる。まずそもそもの出自からして異なる。素性のわからぬ伊勢の素浪人などではなく、室町幕府において要職である政所執事を代々務めてきた高級官僚伊勢氏の一族であり、8代将軍義政の際に辣腕を振るった伊勢貞親の親類。何なら早雲本人も、9代将軍義尚の申次衆という、いわば側近の地位を得ている。

さらに、備中国荏原荘に所領があり、大名とは言えないが、素寒貧の浪人ではさらさらない。今川義忠に嫁いだ姉は、伊勢氏の家柄からすれば、妾どころではなく正妻。年齢も、従来の痛切よりは20歳以上若く、駿河に赴いたときは50代ではなく30代とされている。さらに言えば、北条氏を名乗ったのは早雲の息子である氏綱の代からであり、早雲本人は伊勢盛時あるいは出家後の伊勢宗瑞と名乗っていたようである。

このように、当時としては老境にある50歳過ぎにして裸一貫の素浪人が、己の知恵才覚で国持大名となり、北条氏を切り開いたというサクセスストーリーは、今日では旗色が悪い。では、北条早雲あるいは伊勢宗瑞が、単なる幕府の少壮官僚かと言うと、そうでもないのがまた面白いのである。

やはり、早雲最大の転機は、幕府の申次衆を辞め、駿河に赴いたことだろう。記録によれば、このとき、申次衆を退いただけではなく、備中の荏原にある所領を他人に譲り、先祖の菩提寺の管理も他人に任せている。鎌倉時代以降、一所懸命と言われ所領を守ることに血道を上げる武士としては異例だ。

駿河下向の背景にあったのは、まず、駿河守護今川家の後継者争いである。早雲の姉の嫁いだ今川義忠が戦死し、その遺児である竜王丸は元服前の幼子。今川家の血縁関係にある小鹿範光が駿河を専横する中、竜王丸の将来に不安を感じた姉が早雲に助力を求めたのが一つ。

もう一つが、駿河の隣国伊豆および関東の不穏な情勢だ。

関東では、足利将軍家から派遣され、東国における幕府の名代とも言える鎌倉公方と、その配下である関東管領上杉家との抗争が続いていた。鎌倉公方は鎌倉を追い出され、下総国の古河で再起を期す(古河公方)。幕府もそれに介入し、新たに鎌倉公方として義政の兄政知を派遣するが、政知は鎌倉にすら入れず、伊豆の堀越で逼塞を余儀なくされる(堀越公方)。政知死後、その遺児たちによる堀越公方家の主導権争いが発生。

さらにもう一つ上げるなら、上記情勢を巡る幕府内の政局である。

9代将軍義尚は、精神的・身体的にも不安定であることに加え、生前の義政は事あるごとに院政を敷き義尚を掣肘。その後継としては、義政の弟義視の息子である義材か、堀越公方政知の子である義澄が模索され、その間の駆け引きがあった。

このような情勢における早雲の駿河下向は、姉の要請であると同時に、駿河や伊豆の安定を目指す幕府首脳の意見とも一致した結果であろう。さらに言えば、早雲自身幕府での出世に見切りをつけ、おぼろげながらとはいえ、伊豆や関東に向けての自分の可能性に賭けてみたかったのではなかろうか。だからこそ、自分の所領を処分したのであり、そこに、戦国武将としての早雲の新しさがあると思う。

駿河下向後の早雲は、今川家の客将として小鹿範光を討ち果たし、竜王丸(今川氏親)の後見人的立場になるとともに、幕府、特に当時の将軍足利義澄の意を受けたものと思われるが、政知の死後堀越の地に残る兄弟を殺して主導権を握っていた政知の遺児茶々丸を討伐し、伊豆に橋頭保を得た。

以後早雲は、今川家の客将と幕府の代理人という立場を使い分けつつ、自分自身の所領拡大に向けても動き出すことになる。伊豆に加え相模に侵攻し、以後、後北条氏の拠点となる小田原城を奪取。史書によれば、例えばそれまで五公五民が通常だった税負担を四公六民に改めるなど、早雲の政治は民にとっては至極穏当なもので、伊豆相模の平和の実現と相まって、人心の収攬に成功した。

高級官僚とはいえ幕府の一役人に過ぎなかった早雲は、こうして、備中国荏原荘と比べればはるかに広大な、伊豆・相模二国の太守となる。有能な後継者である息子氏綱にも恵まれ、後北条氏が関東を制する土台が出来上がった。早雲としては、上出来の生涯だったのではなかろうか。

50代の素浪人が裸一貫で国を盗るというドラマではないものの、室町幕府の少壮官僚が、政争を続ける幕府に見切りをつけ、自分の可能性を試していくサクセスストーリーもまた、味わい深いものがある。その意味では、北条早雲いや伊勢宗瑞は、室町幕府の権威から生まれながらもその抜け殻を脱し、室町時代の枠組みをはみ出した、まさに戦国時代の幕を開けた人物に違いないと思うのである。


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