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相次ぐ痛ましい介護殺人。世帯の孤立化を防ぐには・・・ [事件]

介護殺人に関する記事が印象的だったのでシェアします。

介護のストレスから、要介護の方を殺してしまう痛ましい事件が相次いでいます。記事では、加害者となった方の様々なコメントを載せていますが、長年家族として暮らしていた関係が、認知症や心身の機能不全に伴い、崩壊し、介護者の心を蝕んでいく過程は、どれも悩ましく、身につまされるものです。

介護だけでなく、働くことに影響が出ることによる生活への不安などから、目の前の事態に対応する事で手一杯となり、悩みを誰とも共有できずにストレスを募らせてしまうことは、想像に難くありません。

もちろん、金銭的な支援も重要でしょうが、介護している世帯が孤立せずに、情報や悩みを共有しあう仕組みを作ることが、まずは取り組むべき課題なのかもしれません。

介護については、介護士の不足や待遇改善、介護保険制度など、マクロ的な政策として、やや抽象的に語られがちです。それはそれとして重要なのですが、やはり、一人一人の生き死にの問題であることを思い出すべきなのでしょう。

【参考記事】
http://news.yahoo.co.jp/feature/234

ヘイトスピーチ、「反対」と「抑圧」の狭間 [事件]

ヘイトスピーチに関するコラムが面白かったのでシェアします。

【参考】
http://blogos.com/article/179166/

川崎市で先日、在日朝鮮の方々への差別的表現を含むデモに対し、ヘイトに反対する市民数百人が取り囲み、最後は警察の説得もあってデモ自体が中止されたという事件がありました。これに対して、ヘイトスピーチへの反対の立場から高く評価する声がある一方、正規の道路使用許可を経たデモを事実上実力行使で中止させたことに対する批判もあります。

この件も含むヘイトスピーチ全般に関し、筆者の主張でユニークなのは、ヘイトスピーチへの「反対」とヘイトスピーチの「抑圧」を分けて考えていることであり、中でも後者について懐疑的であることです。

『数百人で取り囲んでデモを中止に追い込んだことを称賛する人たちは、自分たちのデモが数千人に取り囲まれて中止に追い込まれる事態は生じえないと思っているのだろうか。』
『戦争の時代、国民を抑圧したのは国家権力よりむしろマスメディアや周囲の目だったことを忘れてはならない。』

などの文中の指摘は非常に示唆的です。

確かに、差別的であり過激な表現のヘイトスピーチは無くなってほしいと思います。しかしヘイトスピーチを無くすために何をやってもいいわけではないはずです。生命や身体、財産への危険が差し迫っている場合を除き、集団での圧力や政府の実力行使には、消極的であるべきだと思います。

むろん、明らかに不穏当な表現のヘイトスピーチもあります。しかし今後は、ヘイトスピーチに該当するかどうか、微妙な言論が争われることが増えてくることでしょう。

重要なのは、「ヘイトスピーチ=悪=規制」と一直線に結びつけるのではなく、表現の内容や、それが行われた場所、時間帯、その表現によって侵害される権利など、一つ一つの事例をきめ細やかに議論し、その積み重ねで、社会全体でのコンセンサスを作ろうとする試みではないかと思います。

アイドルは構造的にハイリスク?女性の刺傷事件について [事件]

東京都小金井市で発生した芸能活動をしていたという女性の刺傷という痛ましい事件。それに関するとあるブログが興味深かったのでシェアします。

【参考ブログ】
http://blogos.com/article/176465/

ブログでは、「アイドル」という芸能ビジネスについて、「アイドルというキャラクター」が商品であり生身の人間に関係性を求めるのは異なるという大前提を紹介しつつ、現代のアイドルが、キャラクターだけでなく、SNSやブログを用いた「関係性」をも商品としており、かつ「会えるアイドル」などの売り文句でそのことが助長されている点を指摘しています。

もちろん、関係性も商品だからといって、生身の人間に対して交際あるいは距離感を縮めることを一方的に求めることはビジネスの範囲外であり、それへの不満足を理由とした生身の人間に対する犯行は、決して許されるべきではありません。しかし、「関係性」までが商品になると、人間の感情として、それをビジネスと割り切ることが難しく、ファンには高度な自制心が必要となります。ブログでいう、「高リテラシーを要求する商品」となるわけです。

さて、多くの芸能事務所は、おそらく、「高リテラシーを要求する商品」という自覚の無いまま、アイドルのプロデュースを進めているのではないかと思われます。

大きな事務所であれば、そしてアイドル自身が売れっ子であれば、商品価値の維持として警備なども含めた危機管理は行き届きやすいでしょう。しかし、アイドルのプロデュースは零細事務所も少なくなく、そしてアイドル活動をする人々も様々です。そのため、多くのアイドルは、構造的な意味で、今回の刺傷事件のような「関係性」を巡るトラブルのリスクに、高いレベルで晒されていると考えられます。

アイドル活動やそのプロデュースは、できる限り自由に行われるべきであることは言うまでもありません。しかし、高いリスクがある状態を放置し、第二第三の痛ましい事件が起きることは、誰も望まないでしょう。「高リテラシーを要求する商品」は他にもあるはずであり、業界や商品の特質により、それなりにリスク軽減措置が取られているはずです。

アイドル業界にも、何らかのリスク軽減措置とその普及を考えなければならないのかもしれません。

もはや水はタダではない!?水道管老朽化について [事件]

日本各地における水道管老朽化を指摘する記事が興味深かったのでシェアします。

【参考記事】
http://news.yahoo.co.jp/feature/167

相次ぐ水道管事故、管路と呼ばれる基幹となる水道管だけでも、年間25,000件(!)に上ります。水道管事故は、断水はもちろん、周囲の交通にも大きな影響を与え、生活のみならず、産業や医療にとって死活問題となるケースも考えられます。しかし、その改修は遅々として進んでいないそうです。

理由はシンプルで、財源問題。自治体の水道料金に水道管の更新費用の積み立てを上乗せしてこなかったことが大きいとされており、長期視点を失った政治および行政の意思決定のツケだともいえそうです。

かつてイザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」では、日本人は水と安全をタダだと考えているという、痛烈な指摘がありますが、ようやく、日本人も水のコストをキチンと考える時期が来ているといえるでしょう。

奇しくも先日、安倍総理とEU首脳との会談でも、財政出動の必要性で認識が一致しました。老いも若きも富める人も貧しい人も、生命維持のインフラとして水道は不可欠です。水インフラを国として財政出動の目玉にすることを考えてもよいのではなでしょうか。

謙虚さと責任と覚悟。熊本地震を巡る発言について [事件]

今月14日から相次いでいる熊本などを中心とする地震。ライフラインの途絶や先の見えない状況など、報道での断片的な情報ではありますが、お気持ちは察するに余りあります。改めて、熊本県、大分県はじめ各地の被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、早期の生活の安定、復旧をお祈り申し上げます。

さて、そんないわゆる熊本地震を巡り、ネット上における著名人などの発言が話題になっています。様々な活動の自粛に疑問を呈したサッカーの本田選手の発言や、批判により被災状況や心情を記していたブログの更新を止めた井上晴美さん、そして政局から考慮して「タイミングがいい」と発言して非難され発言を撤回した参議院議員の片山虎之助氏などなど。

さらに、著名人ではなくてもSNSなどで大いに拡散されたものも含めれば、熊本地震を巡る発言が無数に散乱しているといっても過言ではありません。

その中にはもちろん、マスコミなどでは報じられない貴重な現地情報があったり、専門知識を持った方と思われる避難や支援の具体的な方法に関するものがあったりなど、有益なものがあります。その一方で、著名人や他人を非難する発言や、自分のかねてからの主張に我田引水するために地震を引き合いに出すもの、その他不必要に不安を煽りかねないものなど、情報の質はまさに玉石混交。受け取る個人のリテラシーも大いに問われます。

玉石混交とはいえ、情報が一方的に統制されるよりは情報が流通する方がまだましだと考えます。ただ、愉快犯的な虚偽情報や、他人を非難・批判・揶揄する情報の氾濫は、情報を受け取る側の混乱だけでなく、非難や復旧、支援への妨げになりかねません。また、風評被害などを通じ、通常の経済活動を阻害することもありうるでしょう。

やはり、インターネット上など、不特定多数の人が見られる場所で情報を発信した人には、それなりの責任が発生するという自覚が必要なのかもしれません。その意味では、ネット上での虚偽情報や心無い発言で被害を受けた方が、損害賠償請求や刑事告発などで、責任を追及する声を上げやすくする仕組みやサポートが必要なのだと思います。また、自分にとって必ずしも意に沿わない発言があった際でも、軽率に批判せず、ちょっと踏みとどまって考えることも大切でしょう。

いわゆる熊本地震という大災害に対し、被災していない方でも、心揺さぶられざるを得ないのは当然だと思います。そして、世の中の圧倒的多数の人は、被災した地域の復旧、復興を望んでいるはずです。誰でも、自分の情報発信が復旧や復興に役立てばよいと思っているはずです。そうであれば、自分の正しさを主張する際に、他人を傷つけないよう一歩下がる謙虚さと、それに対しどこまで責任が取れるのか覚悟を持って発信することが、情報の質を高めることになるのだと思います。