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【フィクション】月の女王の涙 [フィクション]

物心ついてからは、病棟が、少女の世界すべてだった。
少女は、完治の見込みがない難病に冒されていたのだ。

極端な苦痛こそ無いものの、
病は日々ゆっくりとその身体をむしばんだ。
絶え間ない倦怠感と孤独感と焦燥感は、
彼女の精神をも損なっていった。

看護師はもちろん、医師や、見舞いに来た両親に対しても、
少女は、考えられる限りの罵倒の言葉を投げつけた。
言葉ではなく物を投げつけることさえも、
珍しいことではなかった。

皆、彼女の境遇に同情し、苦情一つ言わず、
できうる限りその意思に沿うよう努めていた。

こうして少女は、まるで女王のように、
病棟に君臨しているかのように見えた。

だが、彼女にもままならないことがあった。

女王は、ある若い男の看護師のことが、
とても気になっていた。
しかし自分の身体のことを顧み、その感情を、
こころの奥底に封じ込めようと努めていたのだ。

(わたしには、恋などできない)

だが若い看護師も、何とはなしに、
その気持ちに気づいていた。
なぜなら彼も、女王のことを好ましく思っていたから。

ある夜、消灯時間を過ぎたころ、
男は女王にナースコールで呼び出された。

「わたし、月が見たいの』」

夜の冷たい外気は、病には厳しい。
男は言葉を尽くして女王を説得しようとしたが、
その夜の女王はとりわけ聞き分けがよろしくない。

(まあ、短時間なら、平気か・・・)

男は、女王を屋上へ連れていった。

空は満月。
銀色の光が燦々と降り注いでいた。

女王は屋上の手すりにもたれ、
限りない憧憬に満ちたまなざしで、月や星を見上げた。
涼やかな夜風は彼女のつややかな黒髪を撫で、
月光は蒼白な顔を浮かび上がらせた。

男は、時間を忘れて女王に見入っていた。
女王はふと、男の方を向いた。
女王は、いや少女は、声も上げずに泣いていた。

男はためらわず少女を抱き寄せ、
そして涙の伝った頬に口づけた。
少女はおずおずと男の背に手を回し、
そして、か細い腕で力一杯男を抱きしめた。

それから、女王と男は逢瀬を重ね、いつしか、
唇を、そして身体を重ねるようになった。
それは文字通り、命を削るような行為であった。

女王の心は少しずつ和んでいき、周囲に優しくなった。
口さがない病棟内では、男と女王の間を勘ぐる者もいたが、
女王のご機嫌がいいことから、それ以上詮索しなかった。
ただ、女王が日々やつれていくことは、
もはやとどめることのできないものとなった。

そしてある日、女王は少女としてこときれた。
少女の顔には、うっすらと、満足げな笑みが浮かんでいた。

少女の死後、男は少女との関係の責任を問われ、
病院を解雇された。

男は少女の両親に会い、謝罪した。
少女の両親は、語彙を尽くして彼を罵り、
詰り、非難し、恫喝した。
男は何も言わずただ頭を下げただけだった。

男は、あの夜の満月が照らした少女の涙を胸に秘め、
生きていくことに決めていた。

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