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【読書】経済大陸アフリカ [読書]

『経済大陸アフリカ』(中公新書)読了。

新書なのにとても情報量が多く、興味深かった。

長年貧困と援助の対象とされてきたアフリカが、グローバル経済に
組み込まれつつあるプロセスを様々な角度から語り、日本としての
スタンスにも検討を加えている。

論点は様々だ。

・中国の急増する資源需要とその資源戦略
・アパルトヘイトを克服して制裁解除と経済的自由を得た南アフリカの台頭
・開発政策と社会政策の相克としての国際援助
・急速な経済成長と消費需要の高まりを商機とする多国籍企業
・労働集約的、輸出志向型工業で経済成長を果たした東アジアとの相違

等々。これらがひとしきり触れられていて勉強になる。

さて現在、多くのアフリカ諸国は、原油、ガス、鉱物等の資源国として、
外資導入による急速な経済成長に酔っている。

懸念は二点。

一つは、所得の極端な不平等化、もう一つは、人口の未だ多くを占める
農業労働の生産性の低さである。この両者は、むろん関連する。

特に後者は、生産性の向上が人口増加に全く追いつかない状況であり、
世界的な食料受給逼迫の要因となりうる。

かつて、西欧型の経済援助政策では、政府のガバナンス改革を求めた
ものの、それによってアフリカの経済成長をもたらすことは出来なかった。

アフリカの成長をもたらしたのは、政治ではなく、やはり、「もっと欲しい」
「もっと豊かになりたい」という、経済と資本の論理であった。

それを強く促進したのが、共産党が支配するはずの中国による、経済的にみて
プラグマティズムな政策だったというのは、いささか皮肉を感じないでもない。

もはやアフリカは世界経済の網の目に組み込まれてしまっており、おそらく、
後戻りは出来ない。グローバル化というやつだ。

もっとも、グローバル化の懸念を解決するには、おそらく、農業への大規模な投資と、
所得分配政策が必要だろう。その意味では、農業部門への金融の円滑化と、税制や
社会保障の整備が必要となろう。

アフリカが、資源バブルを超えて経済大陸でありつづけるのか、それとも、
再び暗黒大陸に戻るのか、ここでようやく、経済ではなく政治の論理が求め
られているのかもしれない。

高度経済成長とバブル景気を経て経済大国に躍り出た日本が、現代史上でも
まれな経済停滞に陥っていることと、アフリカの未来と、何とはなしに比較を
したくなってしまうのであった。

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ある落し物~雀と哲学者と法学徒~ [日常]

本が入っている袋を落としてしまった。

『雀の手帳』(幸田文)と『哲学者と法学徒の対話』(ホッブズ)。

前者はエッセイ。見開き2ページで1回分。
日常生活を意地悪く見つめながら、それでいて凛とした感じの日本語。
続き物であったりなかったりと、融通無碍。

何でもない生活が、言葉によって美しく変換されるから不思議だ。

しかし、このような日常生活の美化は、日本の伝統なのかもしれない。
私小説もそうだが、以前、博物館で近衛家の遺物を見たことを思い出す。

そこには、日常生活に使うこまごましたものを、綺麗な紙や布、
和歌で彩る王朝人達の生活があった。

後者は、リヴァイアサンで有名なホッブズの対話編。

清教徒革命における大混乱を目の当たりにしたホッブズは、
法を通じた国家主権確立の必要性とその論理的正当性を、
対話に託して語る。

英国のコモン・ロー概念を確立した法律家、
サー・エドワード・クックの議論を、ある面では否定し、
ある面では肯定しつつ法、裁判、王(国家)の関係を
定式化しようと試みる。

読み進めるうち、近代国家概念の生まれいづる悩みを、
追体験している気になる。

『雀の手帳』は読み終わっていたが、
「対話」は読んでいた途中だったので、少し残念。

雀の背に乗って、哲学者と法学徒はどこかにいってしまったのか。

やれやれ。

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【読書】野分 [読書]

漱石は一通り読んだ気がしていたが、そういえば、『野分』はまだだった。で、通勤途中などに読んでみることに。

江戸から明治へ、文語と口語の挟間に生きた漱石の文章は、当時としては破格に新しかったのだろうが、150年後の平成末には、風俗描写もあいまって、さすがに、古色蒼然の風。でも、そこで語られる人物の悩みや物語としての形は、日本語を通じてきちんと
伝わるものだった。

「希望のないものは悲観するのは当たり前だ。君は必要が無いから悲観しないのだ」

「夜が明けて、人の声がして、世間が存在しているという事がわかると苦痛である」

「束縛のない自由を享けるものは、既に自由のために束縛されている」

文学部を卒業したばかり、かたや裕福な出自の中野と、貧窮をかこつ高柳。そして、妻や周囲の思いをよそに、生徒や父兄に排斥されて教師の職を失うも、世におもねらず、超俗にして泰然と生きる文学者白井。

中でも貧窮に悩み、世に入れられぬことに悩み、病苦にも悩まされる高柳の苦悩と、苦悩から異なる意味で離れた位置にいる中野と白井の対比は、愉快ですらあった。

最後は、病気の転地療養にと中野がくれたはずの大金を、草稿の代金として、 借金取りと談判している白井に高柳が提供することで、幕は閉じる。

その後の高柳を考えるといささか凄惨な気もしないでもないが、読後感は、どこか爽快だ。似ても似つかないはずだが、舞台設定を替えれば、どこかしら、ディケンズが書きそうと思えなくもない。

ともあれ、きちんとした小説を読んだという感覚が確かに残った。

夏目漱石はどうしても読んだ気になってしまいがちだが、いささか年を取って読むと、また言いようも無い趣があると感じた次第。

漱石の
言葉が胸を
吹き抜けて
野分のあとを
振り向けど春

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ある日の赤羽行、まるます家 [食べ物系]

たまには、赤羽で飲む。

いろいろよさげな店があるのはなんとなく知っているのだが、とりあえず行くのは、まるます家。十数年前、赤羽在住の知人(アカバネーゼ)が教えてくれたのである。

最初聞いたときは、千円未満で小さなすっぽん鍋が食えるということで驚いた。だが、メンチカツもよいし、季節の刺身もある。鰻の白焼きなんかで一杯ひっかけるのは、最高の贅沢だ。根菜がごろごろはいった牛すじの煮込みは滋味深く、夏なんかは、ゴージャスな冷や奴とでもいうべきたぬき豆腐なんかもよかろう。

要は、楽しいのである。

生活圏ではないので、年に1~2回行くかどうかだけど、衝動にかられるときがあって、この間もそんな感じでまるます家に行くことに。

週末などは並んでいることもあるのだが、その日はすんなりと。一人行動はこういうの便利。相変わらず、二列のカウンター席、気ぜわしく働くお姉さま方。中でも厨房との狭間、店の中央では、60代くらいのひっつめ髪のお姉さんが、注文や勘定の管理をこなす。司令塔のような姿は相変わらず凛々しい。

さて、まず飲み物。サッポロラガービール(赤星)があるのは素敵だ。ちょっと前までは、日本酒に、北区の酒、丸眞正宗があったのだが、蔵元が場所を変えてしまったためか姿を消していた。少し寂しい。ここはジャン酎にしておくか。

ジャン酎とは、ジャンボ酎ハイの略称。氷の入ったグラスと、炭酸で割った焼酎の1リットル瓶様が登場する。アルコール類は三本までとのハウスルールがあるが、ジャン酎は量が多いので、一本で終了である。今日の大事な相棒だ。

で、食べ物。店内のメニューの貼り紙を見回す。個人的なセオリーは、すぐに出てくる鯉の洗い。ただちょっと毛色を変えてみたく、その日たまたまあったナマコ酢とウドぬたを注文。幸いなことにまだ丈夫な歯でナマコをゴリゴリと嚙みしだきつつ、ウドのホロ苦みを堪能する。

一心地つくと、貧乏性なので、周囲の人々が飲み食いしているものが気になりだす。

右の紳士は、日本酒から入って鯉の洗いに進んだ。なるほど、そうだよな。左の紳士も、やはり日本酒と鯉の洗い、そしておしんこを追加。わかる、わかる、と思いながらナマコとウドとジャン酎。ここらで、少し温かいものが食いたいと思い、店内を物色。ああ、鰻いいなあ。鰻が美味しいのはわかりすぎているものの、近年のシラスウナギの不漁のせいだろう、高級すぎてちょっと予算をオーバーしてしまう。無念。

次善の策として、ナマズの唐揚げを注文。そうこうしているうちに、右の紳士は玉ねぎフライとカキフライを頼んでいた。左の紳士の日本酒も一本増えている。

ナマズ登場。見た目は普通の唐揚げ。身の食感はタラのようでほくほくとしていて、ほんのり、鰻などに共通するような川魚の香りがする。まずくない、決してまずくないぞ。唐揚げの熱さ、しょっぱさに進むジャン酎。ふと右の紳士、日本酒の後にジャン酎を注文。ルール違反か?店のお姉さんにたしなめられつつも、「まあ、肴が残ってるから仕方ないわね」と片目をつぶってもらっていた。こういう融通も味わいがある。

唐揚げを食って胃が温かくなったところで、ちょっと箸休めが欲しくなり、湯葉刺しを頼む。アサツキに湯葉を巻いたもの。ほんのりした湯葉の香りが優しい。すると左の紳士、「湯葉刺しって、そういうのだったんですね。僕も頼もうかな」と話しかけてきた。「そうなんですよ~」とか言いつつ、会話ともつかない会話を交わす。嫌いじゃない、この距離感。

湯葉刺しを食べ終えるころには、ジャン酎も残り少なくなってくる。そろそろ〆の一品を考えたい。温かいものがいいが、さて。すっぽん鍋か、どじょうとじか。で、選んだのが、鯉こく。鯉の身がしっかり入っていて、それなりに食べ応えもあり、味噌汁の温かさは全てを癒してくれるような優しさだ。

鯉こくを食い終わると同時に、ジャン酎も尽き、その日のまるます家は終了。ほどよい満足感。

一人で行くのはもちろん楽しいのだが、知人と行くといろいろ飲み食いができて、さらに面白いというメリットもある。また、背中に赤い羽根が生えたような気分の時に、まるます家を訪れたいもんなんである。


【まるます家】
https://tabelog.com/tokyo/A1323/A132305/13003778/
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BOPビジネスへの雑感 [経済]

BOPビジネスについてちょいと思いを馳せた。

BOPとは、ベース・オブ・ピラミッドの略。いわゆる、貧困層といわれる地域や人々を対象としたビジネス。最近ちょいちょい目にしたり、調べたりしている。

意外かもしれないが、生活水準の低い国や地域では、総じて、所得が低いにも関わらず、生活コストが高い。

例えば、まとめ買いすれば安いものであっても、所得が低ければまとめ買いができず、結果的に高い買い物になる。仮に食糧をまとめ買いしても、冷蔵庫とか保存の技術が発達していなければ、腐らせてしまうことになる。

交通の不便な地域では、輸送コストもそれだけかかることになるし、また、金融インフラや信用経済が発達していなければ、割賦販売などで電化製品や輸送機器を買うこともできず、生活コストを下げることができない。

電化製品が使用されていない地域に、コストをかけて送電設備を敷設することなどできないだろうし、自動車や輸送機器が普及していなければ、舗装道路を作る必要も少ないだろう。ついでに言えば、治安に関するコストも、バカにはならないはずだ。

正直、手の付けどころがわからない。

生活水準を引き上げるには、数多くの卵と鶏の優先順位が微妙に組み合わさった取り組みが必要なのだと思う。そして、こういった複雑な網の目を解きほぐすのに、「援助」や「指導」という方法は必ずしも奏功してこなかった。

一方ビジネスは、BOPだろうとなんだろうと、確実に浸透している。

日本企業でいえば、味の素やホンダなどが好例だ。味の素は、その少量販売の戦略も相まって、世界のBOP市場で確実に地歩を築いているようだ。重要なのは、味の素を使うことで、「うまみ」を出すための家庭料理の時間や材料コストが、大いに削減されることだと思う。

またホンダは、ブラジルで二輪車販売を行った際、「コンソルシオ」という無尽講のような金融手法を採用することで、販売を伸ばしたという。もちろん、二輪車が普及すれば、それだけ移動にかかるコストが低くなるし、便利になるだろう。

海外で言えば、低所得者向け低利融資で成功した、バングラディシュのグラミン銀行などが代表的だろうか。

このように、BOP層へ響く商品を提供することで、企業は利潤を上げ、BOP層は生活コストを大きく下げることにつながる。「援助」や「指導」だけでは、こうはいくまい。

リーマンショック以降旗色があまりよろしくないが、BOPビジネスにおいては、アダム・スミスの見えざる手がわかりやすい形で結実していると思う。

もし飢餓や貧困に苦しむ人々、すなわちBOP層へ的確にアプローチしていくなら、商品管理、流通、価格、CSR等々について、ビジネス、言い換えれば企業の儲けたいという欲望を、上手に巻き込む必要があろう。

どうすればいいか、個人的な知恵は、まあ、無いんですがね。ま、引き続きBOPについては、調べてみることにしよう。

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