SSブログ

ターナー、視覚、絵画 [その他]

ターナーの絵画も好きである。

はじめてターナーをしっかり見たのは、20年以上前の学生時代、確か、横浜美術館でのターナー展だったと思う。それから、東京にターナーが来た際には、ちょいちょいご機嫌伺いに行くようにしている。そうなると何度もお目にかかる絵もあって、例えば、

『ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ』

などは、すっかりおなじみだ。美術館側もわかっているのだろう、階段を登って開けた展示室が見えれば、ちょうど見晴らしよくヴァティカンが見えるようにしつらえていることが多い。壮麗で、懐かしく、物狂おしい。明るい色彩に色褪せないラファエロの姿は、年を取るといささか眩しくもある。

ターナーはかつて建築家から製図を学んだことがあるらしく、確かに、建築物の造形に関する秩序は際立っている。しかし、時を経るにつれ、造形の秩序が、光と闇と風と波しぶきの中に融解していくのはなぜだろう。

ターナーの暖かい光を基調とした画面は、モネの揺らめく色彩ではく、ゴッホの燃えるような黄色ではなく、何か大気のような存在感。嵐の海の激しさも、暗い海の清澄も、どこか触れられるような、呑み込まれるような実在を感じる。

「そうしていつか全ては優しさの中へ消えていくんだね」

そんな歌詞を思い出してしまう。まあ嵐の海は優しくはないのだが。

それにしても、この日常で、1分でもいや30秒でもいい、黙ってモノを見る経験というのはほとんど無いのではあるまいか。視覚は大量の情報とともに記憶を掘り起し、つなぎ、むすび、目の前の絵具の塊とは似ても似つかない想念に心をざわつかせる。

布施英利の『脳の中の美術館』にならえば、それは「脳の視覚」ということになるのだろう。

目で見ることが視覚だと思いがちだが、視覚とは眼球と網膜だけでなく、意味や記憶や認識といった他の認知活動に密接にかかわらざるを得ないはずだ。たぶん、絵画によって誘われる、目でモノをしっかり見ようとする試みは、「脳の視覚」に対する「目の視覚」の自立性確保なのかもしれない。

それが何の役に立つのかは知らないが。などととりとめもなく。

ダウンロード (10).jpg
nice!(0)  コメント(0) 

2021東京五輪、開催直前の個人的雑感 [その他]

開催が約50日後に迫った2021年東京五輪に関する、とりとめもない雑感である。

新型コロナウイルスの感染状況が収束を見せない中、様々な世論調査によれば、過半数が開催に反対しているという東京五輪。しかし、菅総理大臣はじめ、意思決定層の頭には開催中止は無いようである。

反対の理由は人それぞれだろうが、まず、五輪による国内外の人流の増加に伴う感染拡大と、それに伴う各種の自由の抑制強化に対する嫌悪があろう。また、すでに度重なる緊急事態宣言で、経済や文化活動が自粛の名の下に大きく制限されている一方で、間違いなく人流を増やす五輪が制限どころか開催に向けて邁進しているという不公平感もあろう。

一方で、賛成、というか反対しない意見としては、すでに観客を入れたスポーツ観戦も始まる中、それより強固な感染対策が取られうること、ワクチン接種が進んでいることなどから、開催しても感染拡大は無く、当初予定通り開催すべきという考えのようである。また、国際的な信用や、IOCとの契約問題などを挙げている意見もある。

いろいろ意見はあろうけど、個人的には、新型コロナ感染拡大も嫌だが、新型コロナ対応と国民の嫌悪感情に晒された開催なんて史上初だろうし、どうなるか見たくないと言ったら嘘になる。そんなはなはだ適当な立場である。

むろん、感染爆発の懸念はあるが、その懸念は、五輪開催の人流の前に、要請への不信感による外出自主規制の破綻からの人流増で起こるんではないかと思う。すでに、6月からは、要請に従わず、通常営業を始める飲食店なども増えてきているようだ。

ただ、報道などでよく見る開催反対の意見と比べ、開催推進の意見がどうも弱いのが気になる。もちろんコロナ対策もあるのだが、ただやると決まっているからやる、では、どうも盛り上がらない。感染対策などの後ろ向きの話もいいが、五輪を開催した際のメリットを、もっというと、景気よい話も聞かせてほしいもんである。

報道でいえば、現在、様々な思いを抱きつつ五輪開催に向けて尽力してる人々が様々なレイヤーでいるはずだ。別に組織委員会の幹部や閣僚に限らず、委員会の中堅職員や、それに従って動いている医療従事者の方々もいるはずである。彼らの声や心情が一切伝わってこないの、それはそれで奇妙だし違和感があるっちゃあある。

もっとも、五輪開催について、SNSとか報道とかでは反対意見が飛び交っているし、五輪関連のニュースとなると、反対だろうが賛成だろうがとりあえず反応してしまう人々は少なくない。こんな文を書いてる自分もその一人だ。そこに、反対意見が多数とは言え国民統合の効果を遺憾なく発揮してしまう五輪という魔物の底力を感じてしまう。

ともあれ、東京五輪、もし開催されれば、感染症危機下でかつ国民の支持が得られない国際的な大イベントをどう開催にもって行き運営するかという試行錯誤の事例ができあがる。それは、国内はもちろん、諸外国にも参考になるだろう。感謝されてしかるべきだと思う。

たぶん、僕が敵対国の政府関係者なら、開催しても中止しても理屈つけて日本を非難できるし、それで日本の国内世論を揺さぶれるし、諸々の試行錯誤を事例として学べるしで、東京五輪と新型コロナ様々とほくそ笑むんではないかと思うが。

でもまあ、こんなご時世での五輪開催、進むも地獄、退くも地獄の感はあり、課題先進国日本として貧乏くじ感は否めないけど、一国民としては、どっちに転んでも楽しんだ方がよいという気がする。開催するしないのごたごたへの怒りや失望も含め、2021年東京オリンピックをどう楽しむかこそが、国民に問われているんではなかろうか。

そんなとりとめもない雑感なんである。

nice!(0)  コメント(0) 

新型コロナ報道における考え方の違い、東京新聞とブルームバーグ [その他]

新型コロナウイルス対策の状況に関する各国比較に関し、時をほぼ同じくして東京新聞とブルームバーグがそれぞれ報じていた。その違いが興味深かったので、備忘録代わりに書いておきたいと思う。

まず、東京新聞はこちら。

◆日本のコロナ対策は「根性論」 海外在住ジャーナリストに聞く各国政府の採点は(東京新聞)◆
(2021年4月28日 12時00分)
https://www.tokyo-np.co.jp/amp/article/100974

記事の立て付けとしては、日本出身の海外在住ジャーナリスト6名に、居住国と日本のコロナ対策の比較についてコメントを求め、採点をさせたもの。見出しにもあるように、各ジャーナリスト、おおむね日本には厳しい採点である。

例えば、ベルギー在住の栗田路子氏の採点。日本と比べ人口は1割以下の約1150万人のベルギーにおいてコロナによる死者は2万4000人を超え、日本の2倍以上になっている点は認めつつ、ベルギーを80点、日本を10点以下と評している。

記事によれば、ベルギーについて、「「対策の過ちを認め、PCR検査や医療資源の確保を猛烈な勢いで実施した」として「80点」と採点。NZと同様、デクロー首相らが透明性を大切に、科学的かつ自分の言葉で説明しようとする姿勢にも高評価を与えた」とのことである。

他のジャーナリストも、政府の説明や情報提供のあり方を理由に、アメリカ在住者を除き、日本に低い採点をしている傾向がみられる。


一方で、ブルームバーグの記事は以下のとおり。

◆シンガポールが首位浮上-新型コロナ時代の安全な国ランキング(ブルームバーグ)◆
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-04-26/QS5FPMDWRGG001?cmpid%3D=socialflow-twitter-japan(2021年4月26日 18:08 JST)

こちらは、新型コロナウイルス感染症(COVID19)を巡り「COVIDレジリエンス(耐性)ランキング」として、各国の状況をランキング形式にしているもの。

記事に掲載された図表では、53か国まで上げている。見出しにあるように、今回のランキングではレジリエンスが高い(=安全)な国として、シンガポールが首位。以下、ニュージーランド、オーストラリア、イスラエル、台湾、韓国と続き、日本はその次の7位である。ちなみにドイツは26位、ベルギーは31位であった。

ランキングの指標として、
・人口10万人当たりの症例数
・過去一か月の死亡率
・100万人当たりの死亡者数
・検査陽性率
・ワクチンを接種した人の人口割合
の5つを用いており、これらから算出された耐性スコアでランク付けをしている。

この二つの記事を比べてまず思うのは、評価の基準である。東京新聞の記事がなんらかの数値基準というよりもジャーナリストの主観による定性的な評価であるのに対し、ブルームバーグの記事がある程度客観的な数字によって算出された定量的評価に基づくランキングであるということ。

例えば、東京新聞における栗田氏の採点では80点として高評価を受けていたベルギーのコロナ対策だが、その高評価のコロナ対策をもってしてもブルームバーグの今回のレジリエンス評価では31位であり、7位の日本はおろか、アメリカ(17位)よりも下であり、変異株が猛威をふるうインド(30位)すら下回っている。日本のコロナ対策のグダグダにはうんざりさせられるが、どちらが客観的に信用できるかというと、ブルームバーグのランキングに軍配を上げざるを得ない。

もちろん、各国のレジリエンスの順位が政府の対策の有効性そのものの順位ではないにしろ、政府の対策がめざましく奏功している国でレジリエンスが下がることは考えにくいし、その逆もまた然りではないかと思う。少なくとも関係が無いとは言えないだろう。

次に考えさせられるのが、それぞれの記事の意味である。報道記事も想定読者を意識しながら書いているに違いないからだ。

東京新聞の記事の特徴は、ジャーナリストの主観による定性的な評価で、総じて日本政府の対策に低い採点を付けていたことだろう。緊急事態宣言を巡るドタバタや、国民に自粛を強いつつ五輪開催には躍起になるように見える政府の姿勢には、確かにイライラさせられる。日本政府のコロナ対策が評価できないと思うのは当然だ。東京新聞は、そんな人々の感情に忖度したのではなかろうか。

一方で、今回のブルームバーグの記事はそんな日本国民の感情に忖度はしていない。指標となる数字の推移を記録し、それに基づいてランキングを出し、数字の推移の原因となった各国の対策を指摘しているに過ぎない。シンガポールなら、国境の管理と厳しい隔離プログラム、そしてワクチン接種である。政府のコロナ対策にイライラする日本人としては、53か国中7位は意外の高順位だが、数字がそう示しているのだから仕方ない。

東京新聞もブルームバーグも、どちらも虚偽を伝えているわけではない。かたやジャーナリストによるコメント、かたや定量的指標の計算結果であり、どちらもあくまで事実を伝えた報道である。しかし、その事実の切り取り方や読み手に与える印象には、大きな違いがあると言わざるを得ない。

報道を鵜呑みにしてはならないとはよく言われるが、日常生活にまぎれてついつい忘れがちである。同じような事情を報じたものを見比べることによって、つまり比較によることで、ようやく気付くこともあるんだなと今更ながら思った次第である。

nice!(0)  コメント(0) 

中華文明雑感~宋から清、そして中共へ~ [その他]

かつて上野で開催した故宮博物院展の思い出がてらに。

そのときは、例の有名な翠玉白菜の展示も終わって平日だったこともあり、館内思ったより空いていて一安心だったのを覚えている。

殷の青銅器や玉壁など数多あったが、展示の前半、宋代の展示がまず面白かった。西のローマと並び、東洋における古代中華帝国の精髄であった漢が滅び、唐を頂点とする中世を経て、西欧のルネサンスと並び称される宋代。

宋代には、古典の徹底暗記を中心とする官吏登用試験、科挙が完成し、以後、約1,000年にわたり続く、専制君主と士大夫なる文人エリートによる社会指導体制が作られた。そして芸術もまた、士大夫の手でおりなされることになる。

青磁や白磁の品のいいなまめかしさや、典麗な書。特に北宋最後の皇帝である徽宗の書は、やたらモダンな精巧さであり、王羲之を理想とする中華の書とは一線を画す。写実の中に精神性を託す文人画を透かして見れば、数百年後の異国に、雪舟や、狩野永徳、長谷川等伯などの存在がほの見える。なるほど、この辺からきたか。

ところで21世紀の現代まで残る故宮の収蔵品収集に執念を燃やしたのは、清朝最盛期を現出した乾隆帝。18世紀における世界最大の帝国に、60年間君臨した帝王である。

その帝王が、様々な家具や小物にまで関心を持って収蔵品を収集する様子を想像すると、何やら微笑ましい。中華文明の一つの到達点ともいうべき存在が、中華の辺境満州族出身の皇帝というのも、なかなかに興味深い。

乾隆帝の収集物をつらつら眺めるにつれ、中華文明の完成と爛熟、そしてその崩壊の足音が聞こえてくるような気がする。乾隆帝死後半世紀余りの小康を経た後、アヘン戦争という不幸な文明の衝突をきっかけに、支那大陸は混迷と自信喪失に叩き込まれることになる。

清朝の崩壊、国民党政府、国内の混乱、日本との戦争、そして国共内戦を経て、共産党政府の大陸制覇。大躍進運動や文化大革命、天安門事件などの悲劇を経て、中国は、軍事および経済の大国である中国共産党政権として復権し、自信を回復したかに見える。

しかし、自身を回復したはずの中華文明にあったのは、ある意味文明や文化をかなぐり捨てた、裸の軍事力と経済力であった。

おそらく中共政権は、清朝の瓦解で名実ともに終わりを告げた中華文明の、正統な後継者を自任しているのだろう。しかしかつて中華文明が他国からの朝貢と交換に周辺国へ最新の思想や技術を伝えたのに対し、共産党政府は陰に陽に力を誇示し、威嚇を続け、あまりにも国家エゴを前面に出した行動に終始している。

そこに、古代から近代にかけて、日本をはじめ周辺国が憧れた中華文明の姿は存在しない。

中華が再び文明の一中心になるのか、パワーポリティクス上の歴史の通過点として消えるのか。豊饒な故宮博物院の物品を見て、未来の中華に、ふと思いをはせて見た次第なんであった。

nice!(0) 

アイドルマスター、15年 [その他]

『アイドルマスター』が、リリースから15周年らしい。もうそんなに経つか。ゲーセン版のアイマス(いわゆるアケマス?)をしばし嗜んだ者として、当時の記憶でも振り返ってみよう。

2005年ころ、新宿のとあるゲームセンター。プロデューサーとして女性アイドルを育てるというコンセプトのゲーム。何気なく始めたがなかなかに面白く、ふだんあまりゲームをやることの無い自分のやり込み心をくすぐられてしまった。

まず、アイドル候補たちの個性や魅力がある。

単純に歌うことが好き、働いて稼いで家族を楽にしてあげたい、内気な自分を変えるきっかけが欲しい、お金持ちの出身だが自分の力で勝ちえた実績が欲しいなどなど、彼女たち一人一人にきちんとした理由や背景があり、それに応じた性格や魅力がある。

ゲームが進むにつれて彼女たちの意識の成長を見るのは、後述のゲームの難易度もあり、もはやちょっとした感動ですらある。もちろん、声優陣もよい。一例をあげれば、釘宮理恵演じるアイドル候補、水瀬伊織に叱られたがる欲しがりなプロデューサーたちも相当数いたはずだ。

次に、楽曲もよい。

15年経った極々初期の曲であっても、今なお『太鼓の達人』などで使われていたり、カラオケで歌われているという。音楽などを日常であまり聴かない自分でも、『魔法をかけて』や『エージェント夜を往く』など、割と当時の曲が記憶にこびりついているのをどうしようもない。

ゲームとしての流れもよくできている。

ゲーセン版は、レッスン&コミュニケーションと、オーディションの二部構成を繰り返す形式。前者は音ゲー・リズムゲーなどを通じアイドルとしての能力を鍛えるとともに、アイドル候補とのちょっとした会話を通じ、オーディションで活用するための思い出を貯めたり、彼女らの機嫌を維持しなければならない。会話の選択に失敗すると、思い出がたまらず、テンションが下がり、オーディションで苦戦することになる。

オーディションは、やはりリズムゲーの全国オンライン対戦。ここで勝ち抜いていくことがトップアイドルとしての条件、すなわちゲームの目的である。基本はオーディションで鍛えた能力を活かしていくことになるのだが、思い出の活用や、オーディションごとのちょっとしたルール変更で戦術をかえていくなど、意外に奥が深い。

さらにいうと、ゲーム上のエンディングを本気で目指そうとすると、事実上、全てのオーディションで勝ち残る必要があり、それにはなかなかの困難が伴う。全国対戦で明らかに自分のアイドルより能力が高いユニットに出会ったときなど、真剣に戦術を考える緊張感がスゴイ。

アイドル候補たちの造形の魅力、楽曲のすばらしさ、そしてゲームのシビアさなど、エンターテインメントとして高いレベルを持っていた。だからこそ、しばし耽溺していたものである。

数か月ほどアケマスを楽しみ、いつしか、つきものが落ち、アイドルマスターから離れた自分がいた。その後のアイマスの各種メディアミックスやコンシューマー機での展開などは、もはや言うまでも無かろう。小耳にはさんではいるものの、実際に見聞きしたものはあまりない。

ゲーセン時代、全てのアイドル候補のキャラクターにそれなりの愛着はあるが、個人的には萩原雪歩を推したい。自分の不甲斐なさに「穴掘って埋まります~」と嘆く姿とその後の成長にある種の感動を覚えたのは事実だ。

さて15年という年月。アイマスは展開を広げ、自分はすっかり中年男性になってしまった。

でも、あのときゲーセンで本気になって遊んだ時間が自分の心に何かを植え付けてくれたのは間違いないし、「あの日の全てがむなしいものだと、それは誰にも言えない」(『時には昔の話を』)。そんな、アイドルマスターの思い出話なんである。

nice!(0)  コメント(0)