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能を見てきた話 [その他]

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少々前のことになるが、先日、友人が能に誘ってくれた。

何でも、行きつけの焼鳥屋でよく見かけ一緒に飲んで意気投合した紳士が実は著名な小鼓の演者の方で、もし興味があればぜひにと、券を手配してくれたとのこと。フットワーク重めの自分であるからして、いい年をして能の一つも見たことが無い。これ幸いと二つ返事で快諾する。

場所は、銀座の観世能楽堂。かつて高島屋だったGINZA SIXの地下。こんなところに能楽堂があったとは知らなんだ。

メインは「卒塔婆小町」だが、それは後半の約90分。その前に、「三番叟」を皮切りに複数演目。全部で約3時間強で、正直、結構長い。事前の勉強など何もせずに行った功徳からか、セリフも多くは判然とはせず、音楽として消化してしまう体たらくで、個々の演目を論じる知識も何も無いし、良し悪しも正直よくわからない。

敢えて思いつくままに雑然と感想じみた単語を並べるとするならば、メロディ、リズム、ライブ、絢爛、ミニマリズム、象徴化、体幹、筋肉、声、静寂、喧騒、仏教、無常、有無転変、劇、物語、生死、みたいな感じにでもなるだろうか。

いろいろかいつまむと、能は演劇に近いのではという先入観があったが、それよりもはるかに音楽であり歌謡であり舞踊であった。また、精神よりもむしろ肉体。静寂から喧噪が偲ばれると思いきや、喧噪の中から静寂が聞こえてくる。衣装はためく絢爛な舞にはどこか死の前の足掻きがあり、静止する姿の衣装の下には体幹と筋肉の充実が覗く。様々な二律背反が妙な統一感を保って迫り、明滅する。

もっとも、一面だけ切り取れば、話もよくわからず、退屈だと言ってしまってもよい。眠くすらなる。しかし、いざ身体が寝落ちしようとすると、そうもいかない。大鼓の音が空間を裂き、笛の音が耳に刺さり、小鼓の音が泡のようにまとわりつき、声明のような謡の声が沁み、舞台を踏み抜く音に身体震える。目には、絢爛な衣装が閃き、衣装の下の鍛えられた肉体の緊張を仄めかす個々の舞や仕草、そして能面。

眠さで意識が飛びそうになりながらも決して意識は飛ぶことが許されない。夢か現か寝ているのか起きているのかわからない陶然は、どこか、いい酒でも飲んで酔うのに似ている。

もちろん、話やセリフや衣装や仕草の個々の意味など、わかればわかるほど面白いものなのだろう。とはいえ、わからないなりに、少なくとも室町時代から600年以上は培われ、研がれて続けてきた一つのエンターテインメントの磁力の一端は、垣間見ることができたと思う。

令和の今の世と比較にならないほど、死や暴力や飢餓や貧困が日常に溢れていた室町時代の将軍や武士や貴族は、今日のような様式美ではなく、まさに生まれ出ようとする「能」に何を見て、何を聞いたのか。想像の一つもしたくなるではないか。

そんな、能を見てきた話なんである。



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