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後知恵かつラフな振り返り~日本経済と政策対応の約三十年~ [経済]

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1:はじめに

デフレ対策から見た日本の政治と経済政策に関し、素人として振り返ってみたくなったので書く。

格差拡大、少子高齢化、社会保障の財源危機、個人消費や設備投資の低迷、国債残高の増加等々。日本経済は暗い話題にことかかない。

そんな長期停滞に悩む日本経済の問題がデフレによる経済全体の収縮にある、そして、デフレ対策には個々の経済主体の努力では足りず、マクロ経済政策が必要である、という認識が一般的になるのは、残念ながら、2012年12月の第二次安倍政権成立まで待たねばならなかった。

もちろん、経済にはデフレ以外の課題もあろうが、最優先がデフレ脱却であり、経済が成長する、もっといえば給料や所得があがるという希望の共有のはず。少しずつでも経済が成長すれば、社会保障や財政再建に対し次の手を打てる。だから、まずはデフレ脱却が必要とされている。

≪参考≫
https://daily-news-portal.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305792282-3

プラザ合意後の急速な円高に伴う製造業の不可逆的な海外流出、消費税導入に伴う個人消費の落ち込み、バブル崩壊による信用収縮等々、1980年代の後半から90年代初頭を2010年代後半の今振り返れば、長期デフレの条件は出揃っていた。

リーマンショックの後にクルーグマンらが指摘したように、デフレ対策で必要なマクロ経済政策のパッケージは、市場に資金を提供する「金融緩和」と、デフレにおいて脆弱な民間の資金需要を公共部門で下支えする「財政出動」の二つである。EU諸国と異なり財政・金融政策の自由度が高く、国債がほぼ国内で購入される日本においては、「金融緩和」も「財政出動」も、十分に可能な選択肢だったはずだ。

では、時の政権は、それぞれ、この長期デフレの兆候に対し、どのように対応したのだろうか。

後知恵的に言えば、残念ながら、デフレに対して一貫した政策が取られたとは言い難い。はっきり言えば支離滅裂だ。当時の政治に経済を省みる余裕はなかった、とでも言えるだろうか。

もう少し細かく見てみよう。

2:プラザ合意+バブル崩壊=デフレ不況のスタート(1985~1992)

中曽根内閣から竹下内閣にかけ、プラザ合意以降の急速な円高に対して国内外で有効な手が打てず、円は上がり続けた。国内製造業の海外流出はまだその弊害を見せない一方、円高による原材料等の輸入品価格の低下や、海外旅行での強い円がもてはやされ、日本は好況感に包まれた。円高不況対策としての金融緩和は過剰流動性を生み、世の中にお金が溢れるようなイメージ。こうして、バブル経済が登場した。

竹下内閣は、このバブルの好況感を背景にか、高齢化社会の社会保障制度の財源確保のための消費税導入を決断する。竹下内閣の末期は、消費増税とリクルート問題をはじめとしたスキャンダルにより、参議院選挙で敗北。後継内閣の有力候補者は、軒並みリクルート疑惑への関与で動けなかった。また、竹下内閣が崩壊しても、竹下派は自民党内の最大派閥として、総理大臣選出のキャスティングボードを握り続けた。

その後、女性スキャンダルで短命に終わった宇野内閣。そして、小沢一郎氏曰く「御輿は軽くてパーがいい」という、政治的なクリーンさだけがウリの海部内閣は、竹下派の強いコントロール下に置かれた。

海部内閣のイシューは湾岸戦争への対応と、小選挙区制の導入可否が焦点の政治改革、選挙制度改革であり、経済ではなかった。プラザ合意による円高が進行中であることに加え、バブル崩壊という長期デフレの兆候が見え始めたこの時期にも関わらず、日本の政治と世論は経済に対しあまりにも関心が薄かった。

3:政治改革、行政改革に翻弄される経済(1993~2001)

続く内閣で首相を務めた宮澤喜一氏は、おそらく、日本の政治家として最も経済政策に精通している一人だったろう。

宮澤内閣では、バブル崩壊に伴う信用収縮が深刻な不良債権問題を引き起こしていることを直視。不良債権処理のために、金融機関への公的資金注入の枠組みが検討されるが、党内外の支持が得られず、実施できなかった。

不良債権問題はそのまま放置され、公的資金注入のスキームは約5年後の小渕内閣で住専問題を機にようやく俎上に上がり、そして最終的な解決は、約8年後、小泉内閣の竹中平蔵経済財政担当大臣による大鉈を待つこととなる。当時むしろ話題になったのは、ここでも経済ではなく、政治改革であった。
小選挙区制の導入可否を中心とした政治改革論議だったが、それが自民党の下野となった一因は、自民党内の最大派閥である竹下派の跡目争いが大きかったのではないか。派閥オーナーである竹下氏と派閥の禅譲を受ける小渕氏に対する、小沢一郎氏の抵抗と反逆。

竹下氏が完成させた自民党内の出世レースの仕組みを壊す小沢氏は、改革のイメージを身にまとい、世論の期待を受け、新党ブームとあいまって、非自民勢力の結集に成功した。

そして、93年、非自民連立の細川内閣。政治改革関連法の成立で人々の高揚感は最高潮に達したが、事実上の消費増税である国民福祉税構想が根回し不足で頓挫。日本経済がデフレにあるという認識は無く、またしても、経済は後回しにされてしまった。続く羽田内閣では社会党が連立与党から離脱。少数与党のまま何もできないまま、短期間での総辞職を余儀なくされた。

それだけでなく、自民党が竹下氏を軸に巻き返し、自民党、社会党、さきがけの三党による連立、村山内閣が成立した。

村山内閣での主な課題も、経済ではなかった。阪神大震災、地下鉄サリン事件をはじめとした一連のオウム事件への対応に追われたまま総辞職し、後継首班は自民党の橋本龍太郎氏へ。橋本内閣は、省庁再編による行政改革など「六つの改革」をスローガンに様々な政策を実施したが、経済に限れば、デフレ対策として逆行したと言ってよい。

六つの改革の一つが、財政構造改革であり、これは消費増税と歳出削減を意味した。実際、97年に実施された消費増税により個人消費は落ち込み、山一證券や北海道拓殖銀行は破綻。98年の参院選では、財政構造改革と経済活性化のための減税との間で主張が右往左往して敗北。橋本内閣は崩壊した。

橋本氏の後継は小渕恵三氏。海外メディアからは「冷めたピザ」と揶揄され、衆参のねじれ国会に苦しみながらも、小渕内閣は、様々な課題に道筋をつけた。経済については、橋本内閣の反省に立ち、真っ当なデフレ対策を取ることになる。首相経験者である宮澤喜一氏を大蔵(財務)大臣に迎え、同氏が「平成の借金王」と自嘲するほどに、国債発行による景気対策をや財政出動を実施し、低迷する民間需要への下支えを行った。

また、野党と協同しつつ、不良債権処理のため、金融機関への公的資金注入のスキームを作り上げた。自由党、公明党との連立によってようやくねじれ国会を脱するかに見えた矢先、小渕首相は病に倒れてしまった。

次の総理は森喜朗氏。しかしその選出過程が不透明と批判され、また、本人の言動への非難もあいまって、終始低支持率に苦しんだ。加えて、自民党内の幹部である加藤紘一氏が内閣不信任決議に同調の気配を見せるなど(いわゆる「加藤の乱」)、安定した政策運営は望むべくも無く、ほどなく退陣することとなる。

4:そしてデフレは固定化する(2001~2012)

森氏の不人気への反発か、高い国民の支持を得て成立した小泉内閣。その経済政策を語る上で、竹中平蔵氏(経済財政担当大臣、総務大臣等)は欠かせない。

金融機関に対する公的資金の強制的注入による不良債権処理や、規制緩和を中心に企業の稼ぐ力を強化する「構造改革」と呼ばれる一連の経済政策は、それ自体としては有益だ。しかし、政策の目的がデフレ脱却であるとするならば、小泉・竹中両氏の経済政策はむしろデフレを加速する危険を孕むものだった。

規制緩和によっていくら企業が力をつけても、需要が無ければモノやサービスは売れない。不良債権処理で、金融機関による貸し渋り、貸し剥がしが進めば一時的に資金の流れは滞る。したがって、金融緩和と財政出動を併せることが必要であるにも関わらず、小泉内閣では国債発行額を抑制し、公共事業をはじめとした公的支出の削減を目指した。

結果的には、小泉内閣の政策は、その政権の安定性と相まって、日本の長期デフレを決定付けたといっても過言ではないのかもしれない。その後、第一次安倍内閣、福田内閣と経済政策としては見るべきものはなく、麻生内閣は積極財政による経済再生を目指し、世界的信用収縮であるリーマンショックにも無難に対応したが、選挙で敗北し、自民党が下野。民主党が政権を取ることになる。

民主党政権は、総じて、子ども手当てなどのミクロレベルでの再分配政策に着手したが、マクロ経済全体での金融緩和や積極財政の必要性についての説明が無く、なし崩し的に拡大する支出が批判された。

鳩山内閣では、事業仕分けや埋蔵金の調査が行われたが、マクロ経済に影響を与えるようなイシューは出てこず、「コンクリートから人へ」のスローガンも、予算編成の大幅な変更を実現するには至らなかった。菅内閣では唐突に消費税の10%増税が飛び出し、改めて財政経済運営への不安感を醸成した。東日本大震災では、各種対応の不手際もさることながら、復興増税によって、さらに需要を冷え込ませた。

野田内閣では、消費増税をめぐる論争が、政権内の主導権争いに堕して迷走。民主党は選挙で敗北し、政権は自民党に戻る。

5:敵はデフレだ。だがしかし、(2012年~)

で、今次の安倍政権。経済政策における最大の特徴は、デフレの脱却を第一目的としていることである。これは、かつての政権に無かったことであり、評価に値すると思う。

もっとも、金融緩和、積極財政、規制緩和という、いわゆるアベノミクスの三本の矢と言われているが、実質的に機能しているのは、金融緩和のみである。積極財政については、消費増税で逆行すらしてしまったし、2018年夏の段階では、再度同じ轍を踏みつつある。働き方改革をはじめとした規制緩和については、むしろ小泉構造改革のデフレ政策をすら思わせるではないか。

約30年デフレを続けてもなおそれなりに高い生活水準を日本が維持しているのは驚嘆だが、日本経済の屋台骨は確実に侵食されつつある。団塊ジュニア世代あるいは就職氷河期世代の人口の再生産は、低い婚姻率と出生率で完全に止まってしまい、一世代が失われたといっても過言ではない。

アベノミクスは、金融緩和を中心に雇用の確保という意味で大きく前進した。しかし、デフレ脱却からは程遠い。例えば、財政政策はもっと打てるはずだ。賃上げおよび労働者の交渉力確保、道路や水道などの老朽化したインフラの再整備、教育や医療などへの投資、消費につながる低所得者向け所得補助の拡充等々。

この30年近く、経済政策は時の政治情勢で行きつ戻りつし、真の敵であるはずのデフレと戦う政治家は、ほとんど出てきていない。別に安倍総理でなくても構わない。ただ、デフレを脱却するという目的を持っていること、そして、金融緩和だけでなく、財政支出拡大をはじめとした需要喚起のための方法論と、それを実現できる基盤を作れる政治家に、うまく後を託して欲しいものである。



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