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疑似自然論序説 [その他]

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通常、「自然」とは、人為すなわち人の意思が加わっていない存在を指すと思われます。

自然は、人間の制御を巧みに潜り抜け、災害を起こしたり、 病を引き起こしたりします。 そして、本人の意思を完璧に受けつけないのが、己の死体ということになるでしょう。

鑑みれば、人間の歴史は、自然をいかに人間の意思の下に制御するかであったと言えるのかもしれません。 山を削り、河を掘り、田畑を作り、家畜を育てる。海を埋め、塔を建てるなどなど。

世界は、いわば人間の世界と自然の世界に分かれ、人間は, 自然の世界では生きていくことができません。いわゆる、脳化社会ですね。 ただ、大脳で創られたはずのこの人間の世界を、人間が制御できないことに、我々は苛立ちを感じているのではないでしょうか。

例えば、経済。計画経済はもちろん、市場経済だってそうです。 個人の意思に基づく自発的な取引が作る市場は、適切な物資分配を実現する一方、バブル崩壊や恐慌は人間の生活をどん底に叩き込みます。

例えば、国家や企業などの組織。人間が作ったはずの組織が、それも別に誰かの不幸を 願って作られたわけではないにも関わらず、様々な歪みの結果、多くの人に不幸をもたらします。

これらは、人間が作り出しながら、人間の意思が制御できないものではないでしょうか。

脳から生まれながら、誰の脳もそれをコントロールできない存在。これは我々が観念する自然ではないが、自然のような働きをする。ここで、「疑似自然」という概念が生まれる余地があるのではないかと考えます。

高度に分業が進んだ社会に生きる現代の人間は、自然を制御するかしないか、という二項対立ではなく、完全には制御できない疑似自然をいかに暴走させないかという考慮に基づいた行動が必要なのかもしれません。

「人間が作ったのに、なぜ人間の思うとおりにならないのか」

このような無力感とその後の頽廃から脱却するためにも。


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