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ルーツは公害対策から?いわゆる「ゼロリスク」の呪縛と弊害 [政治]

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築地市場の豊洲への移転問題や、原発事故の放射線の影響などで求められることが多い、絶対的な安全と安心、いわゆる、ゼロリスクの声。そんなゼロリスクにまつわる問題を指摘した記事が面白かったのでシェアします。

記事では、豊洲における地下水汚染の問題や、BSE(いわゆる狂牛病)問題における全頭検査、福島第一原発事故に伴う放射線量などの例を挙げ、現場では誰もがホンネでは「ムダ」と思っている作業や公費負担が、他のリスクやコスト負担を考えないゼロリスクを求める姿勢によって、惰性で続いてしまう事実を示しています。

そしてユニークなのが、このようなゼロリスク呪縛の背景に、過去の公害問題への対応があり、特に指導者層がそれに囚われているという指摘です。

確かに、水銀に起因する水俣病など、摂取経路や因果関係、そして発症の閾値がある程度明確なものについては、ゼロリスク的な考え方で原因物質を排除することは合理的だったのだと思います。しかし、年間1ミリシーベルトを求める福島での除染作業や、使用しない地下水にまで厳しい環境基準を要求することは、他のリスクへの対応と比較して、あまりに多額のコストとなると考えられます。

日本の富が無尽蔵であればそれでもよいでしょうが、そのコストのために、機会費用として、実現をあきらめざるを得ない他の社会的な価値もあるはずです(福祉や教育の財源など?)。

ゼロリスクを主張する指導者は、確かに威勢がよく、かっこよく見えます。一方で、社会全体の費用便益を考慮したり、リスクがあるべきことを語ったりする指導者は、どうしても話が曖昧で、優柔不断に見えてしまいます。しかし、ゼロリスクの主張に対しては、その背後に他の分野でどれだけの機会費用がかかっているかを考えるべきでしょうし、社会全体の費用やリスクの存在については、それが科学的な根拠に基づいている限りにおいて、有権者は判断の一材料とすべきです。

リスクをどこまで許容するか、問われているのは、民主主義における指導者と有権者の成熟なのだと思います。

≪参考記事≫
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9429


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