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チェンソーマン感想~あるいは、多様な暴力における人間の社会と倫理の相対化~ [読書]

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『チェンソーマン』、遅ればせながら第一部公安編を読んだ。面白かった。

それは、僕らが当たり前のように依拠している人間の社会とか倫理とかいうものが、実はたいそう儚く相対化されたものに過ぎないのではないかというゾッとするような問題提起であり、それでもなお、人間は生きていくのだという太々しさの提示だと思う。

そして何より、周囲の人々とともに主人公が悩み苦しみ成長し、そして苦難を乗り越える、正統的な叙事詩であり、エンターテインメントであった。

様々な能力を持つ「悪魔」と人間が共存している社会、死別した父親の借金を背負いつつ、かつて血を与えて助けた「チェンソーの悪魔」ポチタとともに最底辺の暮らしをしている少年デンジが、借金のトラブルでヤクザと「ゾンビの悪魔」に殺害される。その際、ポチタからその心臓を譲られることで復活。頭と両腕からチェンソーが飛び出す愉快な姿で周囲をなぎ倒す、チェンソーの悪魔に変身する力を得た。

その後デンジは、内閣官房直属の公安組織のリーダーの一人にしてデビルハンターであるマキマに拾われ、デビルハンターとしての生活を始める。デビルハンターの同僚ないしは上官として、早川アキはじめ悪魔と契約した人間や、血の魔人たるパワーはじめ人間の死体を乗っ取った悪魔である魔人たちと悪魔退治のミッションをこなすことで、デンジは、パンにジャムやバターを塗れる、いわゆる普通の生活を手に入れる。

デンジ含め公安組織は「銃の悪魔」討伐を狙うが、その過程そのものが、実は「支配の悪魔」であるマキマが「チェンソーマン」を支配して、その能力により、「なくなったほうが幸せになれるもの」を消し去って「より良い世界」を作ろうとする試みの一環とも言えるものだった。マキマは、デンジに普通の暮らしや仲間や家族の存在を与え、そしてそれらを奪うことで「チェンソーマン」を呼び出し、その支配を企む。

結果、ポチタやパワーの協力もあり、マキマはチェンソーマン、あるいはデンジに敗北。その肉体をデンジに文字通り食われる(いわゆる、マキマ定食)ことで消滅し、第一部は終了。

さて、『チェンソーマン』では、様々な悪魔が様々な暴力を振るい合い、とにかく人間が死ぬし、悪魔も死ぬし、魔人も死ぬ。「銃の悪魔」のシーンでは、その絵とともに悪魔に殺された死者の名前がひたすらに羅列されていくし、個人的に大好きな「闇の悪魔」のシーンは、11人の宇宙飛行士の上半身と下半身が切断された遺体の間をレッドカーペットとして登場する。そして、悪魔は悪魔のロジックがあるにせよ、人間にとっては不可解にして不条理であるままに、ただ暴力との対峙を強いられる。

そのような、人間の理解を超えた圧倒的な暴力の存在は、一連のクトゥルフ神話とか、『幽遊白書』の魔界を思わせる。作中の人間社会は、このような悪魔の世界と地続きであり、そこには人間の倫理は通用しない。悪魔こそいないが、僕らが生きている現実の人間社会の倫理も、実は当たり前ではなく、全く異なる理解できないロジックで動く一連の人々がいるものの、それが可視化されていないだけなのかもしれない。

にも関わらず、デンジを代表として、作中世界では、きちんと人々が生活している。飯を食い、排せつをし、働き、性欲を持つ。そこには、悪魔という人間の社会や倫理を強く相対化する存在があり、不可解で不条理な悪魔の暴力に晒されつつも、日々を生きる人間のしぶとさがある。

そして、当初は食うこともままならず、パンにジャムが塗れるような普通の暮らしを求め、異性への儚い性欲に囚われる、あまりにも情けなく人間的なデンジが、悪魔との度重なる戦闘の経験と早川アキやパワーをはじめとする人物たちとの交感を通じ、ついには人間社会に巣食いそれを意のままに文字通り支配しようとする「支配の悪魔」たるマキマと対峙。それを打倒するまでに至る。

このように、『チェンソーマン』は、自分たちの世界への疑いが投げかけられる恐怖の片鱗を基調としながら、どこかしぶとくユーモラスで、そしてヒロイックな叙事詩であり、とても楽しい作品であった。第二部の学園編も追っかけてみたいと思う。

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