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向田邦子と石原慎太郎でグダグダ [読書]

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『父の詫び状』(向田邦子)を読んでいたら、ふと、
『我が人生の時の時』(石原慎太郎)を思い出した。

共通項は、生と死。

後者が、ギリギリまで迫る死から生を炙り出すのに対し、
前者からは、軽やかな日常性にピタリ寄り添う死が香る。

二人の個性は明白に異なるはずなのに、なぜか、
生と死が織りなす模様には、似た絵柄が透ける。

それは少年時代に戦争を抱え、幼心に死ぬかもしれないと
世代全体が感じた人々の、共通認識なのかもしれない。

もしそうであるならば、経済大国の完成と没落を、
リアルタイムで目の当たりにしている我々世代の
共通認識とは、何なのだろうか。

そんなものは、スキゾキッズたちがフレニーの中に
分解してしまったのだろうか。価値観の多様化。

個性と自由の遠心力は、僕等を、それぞれ異なる星の人々
に変えてしまったのかもしれない。

だからと言って、今更別の生活を営むことはできない。

誰にも顧みられること無く、一人ぼっちの宇宙戦争を戦い、
敗れ、そして野垂れ死ぬ。

戦中世代が、圧倒的な死の影に怯えつつ手を携えて生きてきた
とするならば、僕らの世代は、各々ありふれた悲惨を受け止めて、
独りで死ぬだろう。

孤立が普遍的だなんて、どこか逆説的で面白い。

そう考えると、21世紀の日本を面白く考えられる
一つの羅針盤が、見えそうだがやっぱり見えない。

結局どうしようもないというわけか。やんぬるかな。

さて、グダグタな思考はこの位にして、
プロレタリアートに戻ろうかね。



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