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「安全」と「安心」についての覚書 [事件]

2020年3月時点、中国は武漢に端を発し、日本、韓国、インドといったアジアそしてイタリアはじめ欧米にも猛威を振るう新型コロナウイルス。

医療及び防疫に加え、日本ではイベント等の自粛要請によって経済の大幅な減退が指摘され、トイレットペーパーやマスクの売り切れが続出している。政府は様々な対策を打ち出し、情報提供を行い、報道は連日状況を大きく報じている。

日本では、PCR検査を巡り、データを取るためないしは人々の安心のため検査数を増やせという主張と、重症者の治療を優先するために検査数を抑制すべきという主張が対立した。

そんな中、「安全」と「安心」について漠然と考えさせられたので覚書までに書いておきたい。

「安全」と「安心」、どちらも似たような言葉ではあるけれど、その意味は結構異なる。ざっくり言うと、「安全」が客観的な状態であるのに対し、「安心」は人々の主観的な問題であると言えるのかもしれない。

一見、客観的な「安全」が保たれてさえいればよいようにも見えるが、そこに「安心」が欠けているならば、社会の不安定化は避けられない。「安心」が無い人々の行動は、例えばトイレットペーパーの買い占めだったり、不要なドクターショッピングだったりと、容易にパニックにつながり、客観的な「安全」すら掘り崩しかねない。

結局、「安全」を前提としても「安心」は必要なのであり、むしろ、社会の安定化のためには、「安全」は無かったとしても、「安心」があるだけで足りるとすら言えるかもしれないくらいだ。

もちろん限界はあるけれど、医療や土木技術、その他様々な技術や専門知識によって、世の中はかなりの程度「安全」を手に入れることには成功したと思う。また、「安全」を追及する技術や専門知識は、文字通り日進月歩していると言ってよいだろう。

だが、皮肉なことに、そのような「安全」の進歩が、人々を「安心」から遠ざけてしまっているのではなかろうか。「安全」を確保するための技術や専門知識は、もはやそれらの領域にいない人々の理解からは程遠いものとなりつつある。僕も含め専門外の多くの人間にとっては、それらの知識や技術は、理解度において、呪術やまじないと区別できるものではないとすら思う。

一方で、人々の教育水準は上がっており、専門外の知識についても、自分が専門外であるにも関わらず、様々な情報源を基に、「自分は理解している、できている。むしろ自分の感情に沿わない意見を言う専門家が誤っている」という錯覚に陥りがちだ。ここに、「安全」と「安心」の乖離が大きくなるきっかけがあるのではなかろうか。

先に述べたように、「安全」に関する技術や知識は日進月歩している。しかし社会を維持していくうえでの問題は、「安心」に向けての技術や知識およびその進歩が、専門家や政治家、役人、そしてそれらに含まれない人々、言い換えれば社会全般に、あまりにも欠けていることかもしれない。

日本の歴史を大きく振り返ると、政治は、儀式と祭祀と宗教の歴史でもあったと言えよう。大仏建立しかり、様々な護摩や祈祷もしかり。それが果たしてきた意味は様々であろうが、一つの大きな役割として、疫病や天変地異などにおいて、「安全」が必ずしも確保できない限界があったとしても、どうにかして人々の「安心」を確保したいという試みであったのではないかと思う。

コロナウイルスだけでなく、原子力発電や、台風やその他天変地異や事故など、かつてに比べて「安全」が進歩したとはいえ、限界もある。またそれ以上に、人々の「安心」に係る知識や技術は、いわゆるリスクコミュニケーション等でその萌芽も見えるとはいえ、まだまだ発展途上のような気がする。

そう。

我々の時代の社会に必要なのは、「安全」だけではない、大仏建立や加持祈祷を超えた、「安心」のための技術や専門知識を磨いていくことではないかと思うのである。

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