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いわゆる「表現の不自由展」の中止についてのあれこれ [事件]

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展の一つである「表現の不自由展・その後」の展示が8月3日で中止され、大村愛知県知事と、同展の芸術監督を務めた津田大介氏が相次いで会見した。

展示の趣旨や意図について、企画展のサイト(https://aichitriennale.jp/artist/after-freedom-of-expression.html)によれば、

『日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。』

ものだという。中でも、昭和天皇のご真影を焼いたような表現や、慰安婦像をほうふつとさせる少女像の展示がネット上などで大きな非難を集め、運営に問い合わせが殺到。名古屋市長の河村氏など一部政治家も展示に消極的な見解を示す中、脅迫を含む電話での非難などがあったことから、来場者の危険なども考慮し、展示の中止が決定されたとのこと。

展示作品そのものに対してはもちろんだが、展示中止の判断やそこに至る経緯に関しても、賛否様々な意見が飛び交っている。そこで、本件に関して自分なりに考え方を整理したいと思い、いくつかの論点ごとにまとめてみた。


■表現の自由について
まず大前提として、不愉快に感じる表現であったとしても、具体的な法益侵害が無い限り、つまり不法行為や犯罪にならない限り、「表現の自由」を享受すべきである。それは、昭和天皇のご真影や慰安婦に関する表現であっても、非実在青少年を描いた児童ポルノやフィクションの残虐表現についても、同じように認められねばならないと思う。(もっとも、個人的には昭和天皇を揶揄するような表現は趣味が良くないとは感じているが、、、)

その一方で、避難や抗議や疑問や要望を呈するのもまた、「表現の自由」ではある。しかし名誉棄損や脅迫、業務妨害などに当たるような抗議や非難は、そもそもそれ自体が犯罪や不法行為を構成する。その意味では、今回の展示中止に追い込んだ抗議や非難、特に脅迫に該当するようなものについては、例えどんな動機があったからといって許されるべきではないと思う。

法に違反する可能性のある過剰な抗議行動は、一般予防も加味して、できる限り刑事・民事責任を追及されるべきではなかろうか。


■公的機関による運営
今回の展示が公的機関による運営であり、税金が投入されていることから、表現に配慮すべきだったのではないかという批判もあったようだ。これについては、公的機関が運営しようがしまいが、税金が投入されようがされまいが、「表現の自由」自体は変わらないはずである。

変わるのは、運営側の説明責任ではなかろうか。税金を投入したならば、意思決定をした人は、有権者や納税者に対し、表現への批判や疑問に真摯に答えるべきだと思う。また、そのような表現を選択して展示した意図についても、運営側が説明をする責任は課されるとは思う。


■政治家の発言
河村たかし名古屋市長が、本件展示に対し展示を差し控えた方がよい旨発言したことも、それが政治家としての発言であり、検閲ではないかと話題になった。

個人的には、政治家であろうと、一個人が抗議や疑問や要望を呈するのはやはり自由だし、意思決定者に対し有権者に説明を求めた方がよい旨の意見を表明するのも自由だと思う。その意味では、検閲に当たるというのは言い過ぎではないかといささか思う。

また、一般に、指揮系統に基づく命令や指示、ないしは、脅迫とかの本人の意思を束縛するような圧力があったなら別だが、単に何か言われてめんどくさくて忖度して行動しただけだったら、一義的な責任は忖度して行動した人にあって、それをもって忖度させた人に責任被せるのはちょっと違うと思う。

一方で、本件展示に関し、具体的に運営に対し法令上の影響力を行使できる立場の政治家も存在する。もしかしたら河村氏もそうかもしれない。そのような政治家が、運営関係者に対し具体的に撤回するよう忖度を求めるような発言をしたのであれば、その影響力の不当行使が指摘される余地はあると思う。


■運営者側
本件では、芸術監督の津田大介氏や大村愛知県知事も、様々な観点から批判された。

個人的には、展示を取りやめたのは非常に残念だが、運営関係者および来場者の安全確保などを考慮すると、残念だが仕方ない。やはり、何よりもまず非難すべきは、脅迫等に及んだとされる行き過ぎた抗議であると思う。

一方で、運営者側の説明責任や運営に関する配慮は、不愉快に思う人々が相当する発生するであろう挑発的な表現を展示した割には、必ずしも十分だったとは言えないのではないか。

表現の意図、疑問や批判への対応などをきちんと伝える、もしくは疑問に丁寧に対応することは不可能ではなかったのではないかと現時点では思っている。また、運営上の課題、警備会社の手配、問い合わせ窓口の整備、警察との連携等々、運営手法そのものについて、事前想定が不足していたのではないかと考えている。

■今後に向けて
本件、行き過ぎた抗議が原因であったとはいえ、結果的に展示が中止されたのは甚だ残念であり、それこそが「表現の自由」への挑戦であるといっても過言ではないと思う。一方で、挑発的な展示をして多くの反響が出ることが予想された割には、説明責任や運営への配慮が足りなかったのではないかと疑念を持っている。

今後もこのようなことが起こりうるのは間違いないだろう。そのためには、
・行き過ぎた抗議の是正(必要に応じ、刑事・民事での責任追及)
・展示開催の際の警察や警備会社との連携、問い合わせ窓口運営についての整備
・非難や批判に対し真摯な応答をするための仕組みづくり
などが必要になると考えられる。その前提として、運営者側が、本件の企画決定や展示選定のプロセスなどをレビューし、今後のこの手の展示開催への参考になるような情報公開をしっかりと行っていくべきだと思う。

「表現の自由」は、はなはだ移ろいやすく、様々な立場から利用されやすく、それにも関わらず人間及び社会にとって必要不可欠な権利のはずである。不愉快な表現であっても、いや不愉快だからこそ、「表現の自由」は守られるべきだ。

繰り返しになるが、展示中止そのものは大いに残念だし、それを促した行き過ぎた抗議は強く非難されるべきである。とはいえ、今回の展示およびその中止に至るプロセスが、「表現の自由」を守るための知見を提供する一つのヒントになれば、一定の役割を果たすことができたのではないかと、個人的には思うのである。

<参考記事>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190804-00010002-huffpost-soci

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