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ギスギスさの一要因に関する仮説 [その他]

常に誰かが誰かを批判しあっているようなギスギスしさ。

そんな現代社会を窮屈に感じさせる一要因として、インターネットを中心に人々それぞれの自我が拡散したことによって、自我同士が触れ合ってしまう機会が増えたことがあるのではないか。要は、物理的にはともかく、常時満員電車にいるような精神状況に陥っているからではないかという仮説を漠然と持っている。

気分を害した事柄について、かつて「そんなの自分には関係ないね」で済まされたのが、現代ではそれが拡散した自我に触れる事柄であるゆえに「自分が傷ついた、権利が害された」と感じ過剰反応を起こしてしまう。また、その反応の連鎖が集団化して個々の自我の融解と集合的な攻撃性を帯びることになる。

その攻撃性の主観的な性質は、あくまで「自分が傷ついた、権利が侵害された」ことに対する正当防衛のようなものであり、かつ、しばしば集団であり匿名性も備えていることから、個々人の責任意識がはなはだ希薄となりがちだ。こうして、個人の攻撃性は正当化意識と集団性と匿名性の中に完全に顕現する。

いつ自分がその餌食になるかを思うと、この攻撃性を局外から見るのは、正直いたたまれない。もし自分が渦中にあって逃れるには、自分も「傷ついた、権利が侵害された」に回るしかなく選択肢はほぼ無い。こうして、攻撃性と選択肢が奪われる不愉快への恐れと委縮が、現代の窮屈さの一つの在り方となるのではないか。

もしこの仮説に幾分かの理があるのならば、窮屈さから逃れるには、自分の自我が拡散している事実をまず認め、自我を少しずつ収縮させていくとともに、自分にとって居心地のいい自我の範囲というものを手探りしていくことしかあるまい。

それはとどのつまり、個人の領域、すなわちプライヴァシーの現代的な再認識の過程といえるのかもしれない。そう、ギスギスの背景は、プライヴァシー概念とその活用の混乱にあるのではなかろうか。

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報道でよく見る「無罪推定」とは?狭義と広義のそれぞれの意味 [警察・刑事手続]

刑事事件の報道などでよく聞かれる「推定無罪」という言葉。

一般的な理解では、「何人も、刑事裁判で有罪と宣告されるまでは無罪として推定される」という意味合いで使われている。確かに、その意味が間違っているわけでは全く無い。しかし、実際の推定無罪に関する扱いを見ていると、常識的な知見からは辻褄の合わない、よく分からないことが出てくるのではなかろうか。

例えば、被疑者が検挙され、犯行を自供している際に、「有罪と宣告されるまでは無罪として推定される」のはおかしいのではないか、もう本人も認めているのだから、犯罪者として扱ってよいのではないのか。また、そもそも捜査段階である程度事実関係が明らかになっているのに、「無罪として推定される」というのはどういうことか、有罪と考えてよいのではないか。あるいは、「無罪として推定される」はずなのに、被疑者被告人はマスコミやネット上で叩かれておかしいと感じることもあろう。

ではいったい、「推定無罪」とはもともとどういう考えで、どのような目的や効果を期待されていて、それが当てはまる射程範囲はどこまでなのだろうか。それを理解するためには、「無罪推定」について、狭義と広義、二つに分けて考えることが役に立つと思う。そこで、それぞれの無罪推定の考え方について、ざっくり述べてみたい。

(なお、「無罪推定」と「推定無罪」と同じ意味。刑事訴訟法の議論では「無罪推定」を使うことが多いので、以下便宜的に「無罪推定」を使っていきます)

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新宿御苑のある昼下がり [新宿]

先日オフの午後、一人、新宿御苑で過ごす。

昼どきの伊勢丹で酒の四合瓶と漬物を買いふらりと散歩。
水辺の草原にあぐらをかけば、カラスが一羽、ちょいちょいと
歩いている。

通常の威勢の良い鳴き声ではなく、どこか、
咽喉に何か詰まったような声。

よくわからんが、とりあえず、漬物をちぎって放る。
蕪、大根、胡瓜。1メートルくらい先に投げると、
そのたびに、カラスは嘴でそれを拾いに行く。

ちょっちょっとつまむが、すぐに吐き出す。
やはり漬物はカラスの口に合わんのか。

酒と併せても、漬物、うまいのに。

正面を見ると、水辺には鴨の艦隊が陣形を作り哨戒中。

持参した本は『対局する言葉―羽生+ジョイス』 (河出文庫) 。
羽生善治と柳瀬尚紀の対談。

風と水辺と草の匂いに酔い、あまり内容を理解しないまま
ページをくくると、柳瀬氏による私小説に傾斜した日本の
文学批判が面白い。

そりゃ、フィネガンズ・ウェイクと比べるのは酷だ。

思考がいったんルノアールに飛ぶ。

ルノワールは、ラファエルロの聖母子像を見て、
「何と見事な絵具の塊だろう」と言ったそうだ。
ここまでくれば抽象絵画までは一息だ。

同じ感動を与え、絵の具の塊ありさえすれば、
ルノワールの裸婦像でも、モンドリアンの
幾何学模様でも構わない。

つまり紙に印字された文字列が言語として把握され、
それが人の心を動かすものであれば、文学なのだろう。
そのことを自覚的すると、文体と内容の二元論が希薄化する。

口語散文は言語の自由度を高めたが、そのために、
形式が内容に劣後するという錯覚を生んだのではないか。

井上ひさしが喝破したように、樋口一葉の魅力は、
滅びゆく文語文と新しい口語散文の狭間に生まれた
麗しき徒花なのかもしれない。

このようなことを自意識的にやってのけたのが、
筒井康隆なんだろう。

日本語の小説という形式に関し、徹底的に懐疑的な
作品群はしかし、物語の洪水に埋もれてしまったと 思う。

そう考えると、エピソードの一つ一つは分かっても
全体のつながりがよく分からないまま魅力的な違和感
を残す村上春樹は、やはり海外の作家なのかもしれない。

ちなみに、将棋はよく分からない。

酒もあらかたなくなり、広い草原に出て昼寝に落ちる。
子どもらの声が随分と遠い。

いつの間にか日が傾き肌寒くなった閉園間近、
一合弱飲み残した酒を隠し、御苑を後にしましたとさ。

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平成から令和への個人的な願い~緩やかな統合へ~ [その他]

平成が終わった。

政治や経済、文化など、多くの人がそれぞれの視点で平成を振り返るだろう。多くの優れた論考が生まれるに違いない。そんな中、屋上屋を架すようだが、平成への思いを個人的に振り返り、令和へのささやかな願いをしたためてみたいと思う。

非常に単純化すれば、平成は、個人主義の名の下に、個々の自我が大いに拡散した時代だったと思う。あるいは、国家や会社や革命やイデオロギーといった大きな物語が力を失い、それらから解放された時代であると言ってもよかろう。

個々人は、状況の許す限り個人の自由を最大限謳歌しようとしたし、それを抑制するのではなく、尊重するのが当然と思われた。人と人との繋がりも、個人の感情がベースとなっていった。

それは、浅田彰の『逃走論』におけるスキゾ・キッズたちの世界と言えるかもしれない。

良いことは、危機に際した個人の共感の自然発生だろう。阪神大震災や東日本大震災、その他災害や悲惨な事件事故に対する人々の共感や被災者・被害者への支援行動は、インターネットやSNSを介したもので、マスメディアだけではない自然発生的なものだったし、そのような、社会の強靭さは記憶に新しい。

その裏返しとして、共感できないことや共感が異なるに対する人々の間の分断が甚だしいことが明らかになった。例えば政治的な意見や、放射性物質の被害で、同じ事実、政策でも自分の感情や立場によって、見え方や評価が異なり、意見が違う相互の間では、あたかも対話が不可能であるかのような言説が飛び交った。

そして、令和がはじまる。

もちろん、それがどんな時代になるかはわからない。ただ、自分含め 人々が幸せを感じる時代であってほしいとは切に願う。そのために必要となるのは、どんな時代の空気だろうか。

おそらくだが、令和には国民全体を覆うような大きな物語の復権はもはや無いだろうし、そのことに対する昭和のノスタルジーの声も、時を経るごとに小さくなるだろう。平成における個人の自由は悪くなかったし、様々な良いものも産んだ。

ただ、人々の生活はますます細分化、専門分化が進んでいる。その中で個人の自由を享受し、そして自由を行使して生きるには、目に触れることのない多くの人々の仕事とその複雑なネットワークの構造が必要不可欠だ。

例えば、僕らが24時間営業のコンビニで食う弁当に、一次産業から始めて、どれだけ多くの人の手が加わっているか。田んぼや畑、牧場、漁港、流通、加工、調理、盛り付けといった食材だけでなく、容器や、販売等、それぞれに実に多くの人出を経ていることを想像するだけでも、十分だろう。

それが損なわれるとするならば、個人の自我意識や人々の思考の分断による、他人およびネットワークへの敬意の喪失であると思う。

平成で強化された個人の自我、個人の自由を支えるものは、個人を越えた人々のネットワークであり、それを可能にしたソフト、ハードのインフラである。一方で、個人の自我の強調は、しばしば自尊意識に陥り、そのようなネットワークへの敬意、ないしはその前段階にある他者への敬意を損ねがちである。また、人々の思考の分断も、その傾向に拍車をかける。

ネットワークへの敬意の喪失はその弱体化に繋がり、ひいては個々人の生活水準を下げ、現在享受している個人の自我、自由が損なわれる。それを防ぐには、個人の自我が、必ずしも意見が合わないであろう他人を一応は尊重し、そして自分の外にあるネットワークへの敬意を保つことが必要になるはずだ。もちろんそれらは、個人の自由を圧殺するものであってはならない。

こうして、既存の生活水準や個人の自由を維持発展させるには、個人の自我や自由の強調だけではない、統合への意識が求められることになる。もちろん、この統合とは、国家や社会やイデオロギーといった他所から与えられた大きな物語に組み込まれることではない。個々人ないしはその隣人からネットワークへと段階的に派生していくものとなるべきだ。

あえて言うなら、緩やかな統合とでも言うべきか。

何も、全員がいついかなる場面でお手々つないで仲よくすべきという話ではない。重要なのは、個人の自我に社会性を持たせることであり、個人のプライヴァシーの領域とそれぞれでの思考や表現にグラデーションを持たせることではないかと思う。

例えば、どんなに差別的、侮蔑的な意見であっても、それが個人の内心にとどまっていたり、もしくは自分の部屋の中など、個人の領域内でのみ表現されるのであれば、それは全面的に尊重されなければならない。一方、公共の場で他者を傷つけるような表現をすれば、場合によっては侮辱罪や名誉毀損罪など、刑事責任をすら負いかねない。

そして、SNSをはじめインターネット空間や、数人での社交場の集まりなどは、完全な個人の領域と完全な公共の場所との間に位置しているはずで、それぞれに適した表現の程度についてグラデーションをつけるべきだと思うのである。すなわち、公共に近い領域では、相手や不特定の他人に配慮した表現が求められるだろうし、個人の領域ではその制限が外れる。そうすることで、分断を誘発しかねない個々人の自我と、社会のネットワークの維持を両立に導かれるのではないかと漠然と思うのである。

令和が始まった今、そのようなことをだらだらと考えるスタート地点に立ったのだと言えよう。

社会が一直線に成長、成熟し、人々が時を経るごとに幸せになっていくと考えるほど、楽観的ではない。しかし、それぞれの時代は、それぞれかけがえのない価値を築いたと思う。例えば、昭和は国民の力を結集し、生活を大いに豊かにした。平成は、大きな物語から個々人を解放し、自我と自由を謳歌させてくれた。

令和が、緩やかな統合の時代となり、新たなかけがえのない価値をもって振返られることを、一国民として願う次第なんである。

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