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ウイスキーの香り [フィクション]

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いいウィスキーは、
いろんなことを思い出させてくれる。

客の誰もいない馴染みのバーのカウンター。
いささか薄暗いその隅(私の指定席だ)で、私は、
目の前のグラスに注がれたウィスキーを見つめていた。

とある、シングルモルトの30年物。

上質のカラメルのような色をした水面を、
少しくすぐるように揺らせば、立ち上る香気。

第一印象は、樽からのシェリー酒の香りが華やかに。
でもその底から、モルトの確かな、力強い香りが、
基調低音のように鼻腔に響いてくる。
それはそのウイスキー独特の、温かくて、爽やかで、
それでいて、ちょっと近寄りがたいドライな感じ。

無粋を承知で例えれば、経験豊富ながら瑞々しさを失わない、
一流の女優のような、そんな香り。

普段好きで飲んでいる10年物が、この香りを前にすると、
いじましいほど「若く」思われてしまう。

この酒が生まれた30年前に、私は何をしていたのだろう。
まだ、「将来何になりたいか」について、
可能性を考えずに語れる、小学生だったはず。

それから、いろんなことがあった。

私の人生は、人から見れば退屈この上ないのかもしれない。
人生を振り返るには、私はまだ青二才なのかもしれない。

でも。

草むらで虫取りをした思い出、
ゲームばかりで勉強をロクにせず苦労した浪人時代、
スノッブ気取りで、
わかりもしない古典を読みふけった大学時代、
いくつかの、とても不器用な恋、
「超氷河期」と言われた中での就職、
突然全てを投げ出したくなっての転職、そして、
そして、そして、そして、・・・・・・。

『若すぎて なんだかわからなかったことが
 リアルに感じてしまうこの頃さ』

気がつけば、小声で歌を口ずさんでいた。
少し気恥ずかしくなって、カウンターに目を向けた。
それにしても・・・

「マスター、今夜も順調に暇だね」

声をかけるとマスターは、 いかつい顔に泣き笑いのような
表情を浮かべて言った。

「今夜は、君を待っていたんです」

怪訝そうな私の顔を読み取ったのだろう。
マスターはいささか震える声で、とつとつと、語り出した。

一年前のこの日にも、この店で、
そのウイスキーを飲む機会があったこと。

その日には、ウィスキーが好きな常連達が集まって、
みんなでそれを飲もうと決めていたこと。

私も、そんな常連の一人だったこと。

私がとりわけ、その機会を楽しみにしていたこと。

そして、
その日にはなぜか、
私が来られなかったこと。

いいウィスキーは、
とてもとても大事なことを思い出させてくれた。

そうか。

そうだったのか・・・・・・

そのとき、バーの扉が開いた。
客が何人か入ってきて、そのうち一人が、
マスターに話しかけた。

「もう一年かぁ。早いもんだ」

「ええ。だから今夜はああして」

マスターが指さした薄暗いカウンターの隅には、
その、シングルモルトの30年物が注がれたグラスが置かれていた。

飲む人のいないそのグラスからは、 気高い香りがそこはかとなく漂い、
人々の記憶を優しくくすぐっていた。





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