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報道でよく見る「無罪推定」とは?狭義と広義のそれぞれの意味 [警察・刑事手続]

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刑事事件の報道などでよく聞かれる「推定無罪」という言葉。

一般的な理解では、「何人も、刑事裁判で有罪と宣告されるまでは無罪として推定される」という意味合いで使われている。確かに、その意味が間違っているわけでは全く無い。しかし、実際の推定無罪に関する扱いを見ていると、常識的な知見からは辻褄の合わない、よく分からないことが出てくるのではなかろうか。

例えば、被疑者が検挙され、犯行を自供している際に、「有罪と宣告されるまでは無罪として推定される」のはおかしいのではないか、もう本人も認めているのだから、犯罪者として扱ってよいのではないのか。また、そもそも捜査段階である程度事実関係が明らかになっているのに、「無罪として推定される」というのはどういうことか、有罪と考えてよいのではないか。あるいは、「無罪として推定される」はずなのに、被疑者被告人はマスコミやネット上で叩かれておかしいと感じることもあろう。

ではいったい、「推定無罪」とはもともとどういう考えで、どのような目的や効果を期待されていて、それが当てはまる射程範囲はどこまでなのだろうか。それを理解するためには、「無罪推定」について、狭義と広義、二つに分けて考えることが役に立つと思う。そこで、それぞれの無罪推定の考え方について、ざっくり述べてみたい。

(なお、「無罪推定」と「推定無罪」と同じ意味。刑事訴訟法の議論では「無罪推定」を使うことが多いので、以下便宜的に「無罪推定」を使っていきます)

(1)狭義の「無罪推定」:刑事裁判、刑事手続きにおいて主張・立証責任が検察官にあるというルール

狭義の無罪推定とは、検察官が被告人の有罪について、全て証拠を示して証明しなければならないとともに、検察官による証明が無い、もしくは検察官が証明するまでに至らなければ、被告人は無罪になる、というルールである。

すなわち、刑事裁判において主張・立証責任を負うのは、全て検察官であり、被告人は自らの無罪を証明する必要は無い、ということだ。そして、刑事事件で起訴された被告人は、裁判において検察官が有罪を証明し、有罪判決が出て、それが確定するまで、無罪として扱われることになる。

この考え方を端的に示しているのが、刑事訴訟法336条である。そこには、

『被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。』

とある。被告人を有罪とするためには、犯罪の証明が必要なのである。なお、あくまで「犯罪の証明がないとき」に無罪になるのであって、「無罪の証明があったとき」ではないことに注意しておきたい。被告人は自ら無罪を証明する必要は無いのである。では、「犯罪の証明」をするのは誰か。これは、検察官である。被告人が自ら無罪を証明する必要が無い以上、検察官は、被告人が有罪であることを主張し、立証しなければならない。

このように、狭義の無罪推定とは、起訴後の公判段階における主張・立証責任のルールおよび制度に関する原則である。

もし仮に、この原則が無いとなると、つまり、被告人が自らの無罪について主張・立証をしなければならないとすると、どうなるだろう。検察官は、証拠が不十分であっても、犯罪の疑いが少しでもあれば、被疑者を起訴し、刑事裁判にかけることができるようになる。しかも、一度起訴してしまえば、後は被告人が無罪を証明しない限り、有罪の判決を得て刑罰を課すことが出来る。もし、刑事裁判を嫌がらせの手段に使うとするならば、こんな結構なことは無い。証拠不十分な嫌疑で気に入らないヤツを全部起訴して、後は被告人が証明するまで、検察は高楊枝である。

このように、狭義の無罪推定は、刑事裁判が嫌がらせ、もっと言えば圧政や弾圧の手段として使われることの無いよう、検察に犯罪嫌疑に対する主張・立証責任を負わせ、きちんと証拠を集めた上での起訴・公判が行われるようにするための原則である。

したがって、法令上別途例外が定められてない限り、この原則は絶対に遵守される。ある人が現行犯逮捕されようが、犯罪行為を認めていようが、報道で怪しいと印象操作されようがなんだろうが、検察官がその人を起訴し、刑事裁判で有罪を証明しない限り、その人は法律上無罪なのである。

(なお、「疑わしきは被告人の利益に」といういわゆる利益原則との関係について、無罪推定は、刑事裁判全体の役割分担に関するルールであるのに対し、利益原則は、刑事裁判での具体的な証明過程において裁判官を律するルールであるという違いがある)


(2)広義の「無罪推定」:刑事手続全体の中で、被疑者、被告人への迫害を防ぐための原則的な考え方

狭義の無罪推定が(1)で述べたように刑事裁判におけるルールであるとするなら、広義の無罪推定とはいったい何か。端的に言えば、刑事裁判という場所以外における、被疑者・被告人を扱う原則だと言えるだろう。

すなわち、「有罪判決が確定していない被疑者・被告人に対し、できるだけ、犯罪者ではなく無辜の人として取り扱うようにすべき」、ということがその内容である。例えば、起訴前の捜査段階で逮捕された被疑者について報道する際に一般の人と同じように敬称をつけて報道すべきである、とか、控訴ないしは上告中で有罪判決が確定していない被告人に対して犯罪者として批判すべきではないことや、それらの被疑者・被告人に対しあたかも有罪であるかのような印象操作をすべきでない、ということなどがあろう。

これらは、刑事裁判の外で被疑者や被告人の権利を守るという意味では、重要な考え方である。しかし、狭義の無罪推定ほど、その意味や適用範囲、射程範囲がはっきりしているわけではない。また、狭義の無罪推定に違反した場合、その裁判は違法であり、被告人は無罪となるか、控訴・上告で取り消されることになるが、広義の無罪推定に違反した場合には、このような明確なペナルティは無い。もちろん、一般的な名誉毀損や侮辱などに該当し、刑事や民事の責任が発生することはありうるが、広義の無罪推定違反が何か特別の責任を発生させるわけではない。

また、「犯罪者ではなく無辜の人として取り扱うようにすべき」というのも、曖昧である。例えば、無辜の人であれば、刑事事件の証人として出頭・宣誓義務を負い、嘘の証言をすれば偽証罪で罰せられるが、被疑者・被告人には自分の犯罪について証言の義務は無い(憲法38条など)。したがって、被疑者・被告人を無辜の人として扱うとするならば、出頭や宣誓の義務を負わせるかというと、そのようなことは無いのである。

結局、広義の無罪推定は、被疑者・被告人が報道やインターネット等で様々な批判に晒される場合に、その一定の歯止めとして機能すべき原則ということになる。また、それらの批判が名誉毀損等に当てはまる場合、刑事や民事の責任を認定する際に考慮されるべき事由にはなるだろう。

もっとも、裁判員裁判によって、必ずしも訓練を受けたとはいえない裁判員が事実認定をするにあたり、報道やインターネット上の世論に過度に影響されないよう、広義の無罪推定は重要性を増しているのは間違いないだろう。また、広義の無罪推定については、さらに適用範囲やその内容を具体化させていくべきだと思う。


このように、「無罪推定」には、少なくとも狭義と広義の二つの意味があり、それぞれに目的や意味があるし、射程範囲も異なる。もし報道で「推定無罪」という言葉を見る機会があったら、それが狭義なのか広義なのか、それとも、それらを意識せず漫然と使っているのかを考えてみることで、その報道機関がどれだけ刑事手続への関心や知識をもって報道しているのかがよりはっきりすることになるだろう。

報道は確かに重要だが、知識の裏づけの無い単に興味を掻き立てるだけの報道に、価値は薄い。僕らには、もっと見るべきもの、知るべきことがあるはずである。刑事事件報道においてそれを選別するための一つのリトマス試験紙が、「無罪推定」の扱いなのではないか、と思うのである。



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