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【雑感】杉田水脈議員のLGBT関連発言について [その他]

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自民党杉田水脈衆議院議員が、「LGBTは『生産性』が無い」と述べたとして、SNSで取り上げられ炎上した。様々な論者がこの問題について一家言を放っており、杉田議員を批判する多くの意見があったとともに、擁護する少数意見もあった。

ただ、僕としては何だかよくわからなかったので、実際に彼女が語った内容に即して、自分なりに考えをまとめてみた。なお、杉田議員の実際の発言内容については、末尾参考を参照のこと。

1:そもそも杉田議員は何と言っているのか

大雑把に要点を示すと、概ね以下の3点にまとめられる。注目されたポイントは(2)である。

(1)朝日新聞をはじめ、報道などでは、LGBTの権利を擁護するとともに、制度的な配慮を求める論調が強い。しかし、海外と日本の現状を比較した場合、日本はむしろ親などの家族関係の問題が大きく、制度的な議論は解決になじまないのではないか。

(2)制度的な配慮とは税金を投入することと同義であるが、例えば、少子化対策のような政策目的を前提としたとき、不妊治療などへの公的支援入と比べ、LGBTのカップルは子どもを産み育てるという意味での「生産性」が無い(いわゆる「生産性」発言)。そのため税金を投入することが良いこととは直ちには言えない。

(3)多様な性を制度的な配慮で認めてしまうと、例えば親子同士、兄弟姉妹同士、人間と動物など、抑えが利かなくなって「秩序」や「常識」が失われてしまうのではないか。多様性の名の下にLGBTの権利主張や制度的な配慮を求める報道には懸念がある。公的な制度として認めるのは、あくまでも男女のみでよいと考える。

2:個人的な感想と問題点

ざっと読んだ限り、感受性の鈍い僕としては、いわゆる自称保守の方々のよくある論調だわな、くらいにしか思わなかった。基本的には、LGBT批判というより、それを取り上げる朝日新聞への批判だし。ただ、この手のいわゆる自称保守派にありがちな問題が見受けられる。

それは、個人の権利や倫理の問題と、あるべき社会を実現するための制度や政策の問題との区別を、なぜか(ないしは意図的に?)つけていないように思えることである。

LGBTも、そしてそもそも異性愛者だって、性的嗜好というのは、犯罪にならない限り放っておくべきものであるし、LGBTや性的少数派だからといって、それだけの理由で差別されないことは、現代社会の大きな建前である。したがって、いかなる性的少数派だろうと、人間として生きる尊厳はあるし、そのことを侮辱するような発言はすべきではない。これは個々人にとって平等な、まさに基本的な権利である。

「LGBTカップルは子どもを産み育てることができないから生産性が無い」という発言は、まさにこういった個人の権利に触れる物言いだったのは間違いない。また、性は男女二つであるべきという発言も、このような個人の権利から考えると、批判される物言いだったと思う。

一方で、公的リソースや税金には限りがある。政治や政策決定の当事者としては、それを適切な目的にしたがって配分しなければならない。選挙結果や議会での議決、行政の意思決定過程における、政策の優先順位付けの中で、リソースの配分を受けられる者とそうでない者が出てくるのは、むしろ当然である。それは、人間の権利や尊厳とは関わり無い、政策上の意思決定の話である。

例えば、健康で文化的な最低限度生活の実現という政策目的を持つ生活保護について言えば、生活保護をもらう人ももらえない人も、人間の尊厳は変わらない。もらえないからといって、尊厳が低いわけでもない。だから、杉田議員が、少子化対策や実子の子育ての推進という観点から異性愛夫婦への支援が優先されるべきであり、LGBTカップルへの公的な資源配分を行うべきではない、というのは、理解できなくもないし、それでLGBTの尊厳が損なわれることには、直ちにはならないはずである。

だから、LGBTの権利や尊厳は認める。認めた上で、現在は異性愛夫婦の支援による少子化対策を優先すべきと考えており、LGBTカップルについては、政策的には優先度が下がる、という言い方はできただろう。しかし杉田議員は、LGBTカップルの権利を大きく報道する朝日新聞への批判をしたいがために、また、男女の性という自分の性的嗜好と少子化対策という政策の例を結び付けてしまったために、LGBTそのものを批判した表現になってしまった。

まあ、こうしてつらつら考えると炎上してもしょうがないわな、と思ってしまう。

3:個人の問題と政策の問題を混同するな

今回の杉田議員に限らず、少子高齢化問題に対し、個人の意識や意思決定の問題に還元して炎上するケースが、与党政治家に多い気がする。もちろん、少子高齢化は何らかの形で緩和しなければ、日本社会の持続可能性が損なわれる。その意味では、真面目な議員が懸念するのはわかる。

しかし、政治や行政に性的嗜好や家族の持ち方など、個人のライフスタイルについてとやかく言われたくないし、それはまさに個人の尊厳の問題だ。一方で、少子高齢化は政策の問題のはずであり、法律や予算措置でやり切れていないこともたくさんあるはずだ。

要するに、政策であるはずの問題を個人の意識の問題に還元するのは、政治家として逃避ではないかと思う。なぜなら、個人の意識を政治家はどうにもできないし、すべきでもないからである。自分でどうにもできない要因を挙げて問題を憂いて見せるのは、無意味なパフォーマンスといわれても仕方がない。

政治家は、現実に法律や制度、予算を動かせる人たちのはずだ。社会の問題を解決する際、安易に個人の意識の問題に逃げず、政治家として、政策で立ち向かって欲しいもんである。

【参考】杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)
http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/51543955.html



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