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せめて、カーテンコールまでは~ある『悪歌』読者の戯言~ [その他]

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『悪魔を憐れむ歌』の途中打ち切りに気がついたのは、twitterでのファンの方々の書き込みからだった。実はその直前、第13話のネームを読み、一通りのコメントを返していただけに、信じ難い思い。

SNS上のデマかも、そんな一縷の希望を持って梶本さんのブログを見ると、はっきり打ち切りの文言が。その事実に、自分でも想像以上に打ちひしがれてしまった。同時に、わずか半年強の間に、悪歌は、こんなにも僕の心に巣食っていたのかと、正直、驚いてしまったのである。

きっかけは、facebookのメールからだった。
僕のプロフィールを見た担当編集の方からのお声がけ。

基本、会社や生活に差し支えなければ、フィクション協力系の話はお断りをしていないので、快諾。送っていただいた1巻を読んでみて、過剰なまでの、むしろ暴力的とでも言うべき稠密さに打たれた。そこからは、技術や知識の殻を突き破るような、表現への真摯な叫びが聞こえてくるようだった。

そんな荒ぶる巨獣のような漫画表現を読み終え、ふと目にした末尾の梶本さんの文章が、あまりにも素直に優しく、まっすぐに心に落ちてきて、ヤラレタ、という思いに浸ったのである。

うだつの上がらない中年男の下に、メフィストフェレスが舞い降りてきた、そんな気持ちだった。

それからは、1話分のネームができるたび、その画像が送られてきて、それコメントをつけて返す、というやりとりを続ける。漫画のネームを見せていただいたのは初めてで、最初は、誰が誰だかわからないことも多かったが、どうにかこうにか理解できるようにはなった。

また、最初にプロットをもらって作品の全体を理解していることが多い小説と異なり、悪歌は先が本当にわからないので、話の流れに驚かされ、肝心の確認が疎かになることも少なくなかった。

ネームには、特にコメントがほしい部分について書き込みがされていて、僕はそこを中心に調べつつ、他のセリフやシーンについても、僕なりに面白いと思う方向で考え、提案をする。そんなやりとり。正直、監修というには程遠く、協力、ないしは相談の類だとは思っている。

しばらくして、線と言葉だけのネームが誌面になった姿を見るとき、梶本さんの漫画表現に、改めて感嘆することになる。

実は、梶本さんとは会ったことがないし、声を聞いたことも無い。連絡も、担当編集の方を通じてだ。だが、担当編集の方からたまに転送される梶本さんのメールや、作品自体、そしてファンの方々への言葉を見るにつれ、なまじ会っている知人よりも繋がっているような錯覚を覚えてしまう。

とりとめない文章になってしまったが、そうだ、これを書いている今、僕は飲んでいるからなのだな。

ふだん家では飲まないはずなのに、イタリアワイン『AMARONE 2013』がたまたま手に入り、つい開けてしまった。『ふんわり食感』が無いのは、やや片手落ちではあるのだが、仕方ない。

泣いても笑っても、『悪魔を憐れむ歌』の最後が、こうしているうちにも近づきつつある。

「まだだ彰久 一度幕が上がったら カーテンコールまでがオペラだ」

そのとおり。

四鐘、阿久津、源田、角鉢、真野、藤、カガミ、ガブ、その他諸々、演者の皆が歌い、踊り続けるのであれば、カーテンコールまで、しかとオペラを見届けようではないか。それがどこで、どんな形で描かれることになろうとも。

リアルなものはあらずや?

現実の存在感はどこかよそよそしく、触れなば落ちんかのような存在感が虚構にはある。『悪魔を憐れむ歌』は、目に、耳に、脳髄に、確かに存在しているのである。



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