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孤立した自我の暴走か。。。相模原の無差別殺害事件雑感 [事件]

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相模原市の障碍者施設で、19名の方が刺殺される、にわかには信じ難い、痛ましい事件が起きました。亡くなられた方へのお悔やみを申し上げるとともに、心身に傷を負った方の回復をお祈りいたします。

すでに事件の背景や被疑者の素性や行動などが盛んに報道されており、各方面の専門家的な観点から、事前の防止策の不備の指摘などもされています。ただ、被疑者の断片的な言動と犯行までの時間を考慮すると、もし自分が被疑者周辺にいたとしても、このような重大な結果は予見できなかったのではないかと思います。

状況の精査により、防犯体制などの改善の示唆は得られるでしょう。ただ、本件のような、強い意志で実施される例外的な犯行までをも想定した防犯対策を普及させるには、施設で働く人の勤務実態なども踏まえ、費用や効果の検証も必要になるはずです。

それにしても本件、最近国外で相次ぐテロではなく、個人としての大量殺害事件であることが大変印象的でした。これだけの大きな犯行に及ぶには、政治思想や宗教、国家など、他人との共有を意識した大きな物語に殉じるなど、強い動機付けがあるケースが多いと思います。

一方本件では、障害を持つ方への不満や憎悪は理解できるものの、そこから無差別大量殺人に及ぶことまで共有できる人は、ほとんどいないはずです。そこにあるのは、共有に絶望し、個人の内部で発酵し、膨張し、大きなエネルギーを持った感情でしょう。これは、ある意味現代の日本社会に特徴的な事象かもしれないとも感じます。

本件を直ちに一般化することはできませんが、現在の日本社会において、自我の共有に対して絶望感がただよっているのではないかという漠然とした懸念を持っています。その絶望は、時にこのような危険を孕むことでしょう。それはある意味、全てから遮断された個人主義の行き着くべき姿の一つなのかもしれません。善が人間の社会が設けた基準や徳目に従うことであり、悪がそれからの逸脱であり個性であるならば、このような個人主義の蔓延は、悪という共有できない個性の蔓延とも言えるはずです。

共有を拒否し、孤立した自我の自己増幅と暴走をどう食い止めるか。政策的な手立てはわかりません。ただとりあえずできるのは、一人一人が自分の中の肥大した自我をのぞき込み、その危険を直視することなのではないでしょうか。

【参考記事】
http://news.yahoo.co.jp/story/267



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