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憲法論議の「歪み」とは?対話と議論に不可欠なもの [政治]

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憲法論議を巡るある憲法学者のコラムが興味深かったのでシェアします。

【参考記事】
http://blogos.com/article/177946/?p=1

安全保障法制を巡り憲法論議が盛んになりましたが、筆者はそこに「歪み」を見ています。歪みの前提として、「立憲主義」の理解の相違や憲法観の違いなどを指摘していますが、政権交代が極端に少ない日本の特徴として、憲法論議において立場の互換性が無かったという指摘は重要だと思います。

そもそもあらゆる議論や対話において、相手の立場への想像力は不可欠なはずです。しかし憲法論議では、憲法を運用する政権側と非政権側の役割が長期間にわたり固定化しているため、双方、自分が相手の立場になる可能性を想像できず、対話のための共通の基盤ができにくい状況と言えるでしょう。

実際、多くの憲法学者は政権に関与する機会が少なかったため、非政権の立場が専門家的に絶対に正しく、そこに議論や対話の余地が一切無いという思いが人々の間に蔓延したことも、議論に「歪み」が生じたことの背景にあると思います。

どのような立場にせよ、主張を先鋭化させ、相手にレッテルを貼り、対話や妥協を拒否することは、一面ではブレない姿勢として映り、仲間内では評価されることになるでしょう。

しかし、議論や対話ができない状態では、結局、力対力の勝負にならざるをえず、国会で多数派を占める政権側が勝つことは、火を見るより明らかです。むしろ、政権側が丁寧な説明や議論を厭うのならば、このような力対力の勝負こそ、望むところでしょう。

安全保障法制でいえば、国会前でのデモでの政権批判の主張が先鋭化すればするほど、力で解決できると考え、むしろ政権側はほくそ笑んだのではないかと邪推してしまいます。

議論や対話は、政治権力を持たない非政権側が使いうる最大の武器のはずです。今後も起こり得る憲法論議に備え、非政権側は、単なる政権批判ではない、相手の立場を想像する対話の姿勢を鍛えておくべきだと思います。



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