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コスモポリタンとサヨクに関する雑考 [その他]

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最近折に触れ、邱永漢のエッセイを読んでいます。

「食は広州にあり」
「邱飯店のメニュー」
「中国人と日本人」
「食前食後」

等々。食べ物関係が多いのはご愛嬌。ビジネスものは何となく苦手なので読んでおらず、小説は書店であまり見かけないので読んでません。

邱永漢は当初小説で名を上げたはずが、文芸評論家には好かれませんでした。確かに、例えば小林秀雄とは、かなり方法論が異なると思います。 対象へ出来る限り接近し、同一化を試み、どうしても同一化できないギリギリのところで対象の個性を見いだそうとする小林秀雄に対し、邱永漢は、あくまでドライです。

そのドライさは、知己でありある種恩人でもある檀一雄に対しても、「あの人は文章よりその生活や生き方の方が面白い」 という趣旨の文章を、さらりと書いてしまうほど。

邱永漢は、他人を理解しようと自分と他人の距離を動かすことは、しなかったでしょう。このようなドライさは、植民地下の台湾で生まれ、東アジアの政変を肌で感じて生きたような人物には、付き物なのかもしれません。

それは、国や政府が無くなったり変わったりするのはむしろ当たり前で、それでも は生きて行かねばならないという実感。おそらくこのような実感は、国境を越えて働くコスモポリタンには、大なり小なり有るはずです。

そういえば、ナショナリズム的な反動もあるのでしょうが、いわゆるサヨク的戦後民主主義的な考え方が、昨今批判されてきています。理由としては、その思想内容に加え、結局、それらの思想的指導者が、コスモポリタン的な発想だったところに、限界があったのかもしれないとも思っています。

国や政府を批判するコスモポリタンは、国や政府が無くなろうが、生きて行けるだけの専門的な知識や経験があり、そのような教育を受けています。しかし、彼らが支持を調達しようとした多くの市民はそうではありません。多くの市民たちは、どんなに酷い政情でも、その地を逃げ出すことはできない。この乖離は、ちょっと絶望的です。

必ずしもサヨクとは一致しませんが、例えば安保法制反対を表明した著名人に対し、サイレントマジョリティの向ける視線がそれほど暖かくないのは、そんな背景もあろうかと思います。

なんだか「ヴ・ナロード(民衆の中へ)」を唱えた革命前ロシアのインテリゲンチア、すなわちナロードニキ運動の焼き直しように思えてくるから、不思議でもあります。 ロシアは、プロレタリア革命という名の政治的混乱と、一党独裁の社会主義国家の道に進みました。もっとも、当時のロシアに比べれば、遥かに民衆の教育水準が高い日本に、プロレタリア革命が起こると考えるのは非現実的です。

しかし、コスモポリタンになれない多くの日本人がどうやって自尊心ある暮らしを送ればいいのか、閉塞感の種は尽きないでしょう。 などと邱永漢からはるばる脱線しましたが、とりあえず雑考はここまで。

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